北の富士勝昭

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北の富士勝昭 (きたのふじかつあき、1942年3月28日 - )は、NHK解説者。大相撲横綱だった人[注 1]。時代の風雲児。本名は竹澤勝昭。

人物[編集]

北海道美幌町生まれ、留萌市育ち、協会上では旭川市出身。ネット上で人気があり、「かつあき」と呼ばれている。
巡業をずる休みしてハワイサーフィンを楽しんだり、拳銃を密輸して暴力団に渡して書類送検されたり、断髪式に備えてダイエットを実行したりと破天荒な行動を行う。引退後、親方となり、千代の富士貢が休みの日にテレビゲームばかりしていたので、「おい、ゴルフ行くぞ」と無理矢理千代の富士をゴルフ場に連れて行ったら、ゴルフ初体験の千代の富士がかつあきよりも良いスコアを出して、「いやあ、師匠、ゴルフって楽しいですね」と言われたそう。
親方退職後はNHK大相撲解説員を行い、千秋楽の解説では舞の海秀平が貴重な相方となっている。毒舌家で現役力士の取組に厳しい一方、相撲の話もそこそこに「北海道からアスパラガス送って来てもらったんだ。今日はこれをバターで炒めよう」と新聞記者に言ってみたりと、かなり茶目っ気のある性格も披露している。また、親方時代から場所中に連載している中日スポーツの「北の富士勝昭 はやわざ御免」では、気分の浮き沈みまで本音をぶちまけている。

最近は心臓の手術もしたそうで心配である。

北の富士賞[編集]

十両は実力が拮抗して、北の富士自身が1963年に記録して以来、十両の全勝優勝力士が出なかった。2005年に豊ノ島が好調の時、「全勝なら金一封をやろう。そう北の富士賞」と発言し、2006年に十両全勝優勝を成し遂げた把瑠都に北の富士賞が贈られた。その後、2014年に栃ノ心も十両全勝優勝したが、予算不足を理由に賞は見送られた。なお、2023年初場所で10日目まで10連勝した朝乃山について、もし全勝であれば北の富士賞を授与するつもりだったと千秋楽時に明かした。

概要[編集]

横綱千代の山雅信に誘われたことを契機に1957年に本名由来の竹沢勝昭で出羽海部屋から初土俵。当時の師匠は元横綱、常ノ花。後に元前頭、出羽ノ花が師匠となる。大部屋の取的に甘えて関取昇進にモタモタし、当時あった自費養成員の対象になりかけたが、柏鵬時代の1963年に新十両。十両を5場所で通過し新入幕。新入幕場所で大勝し、翌場所の1964年にいきなり新三役(小結)となる。1966年に大関昇進。

大関昇進後、部屋付きの九重親方となっていた千代の山の分家独立に同道し、小部屋の九重部屋に移籍。その後柏鵬時代も終わり、柏戸引退、大鵬も現役末期で、北玉時代が到来。1970年に、玉の海とともに横綱昇進。大関在位21場所後の昇進は当時の新記録。1971年頃が最盛期であった。その後玉の海が急死、1人横綱となった北の富士も徐々に下り坂となった。現役晩年には、琴櫻も昇進したが共に30代前半で、20代の横綱輪島、大関北の湖が台頭して輪湖時代となっていた1974年に引退。直後に北の湖が横綱昇進。

引退後、井筒親方を経て九重親方として、千代の富士、北勝海と弟子2人が横綱に昇進、1987年頃の九重部屋全盛時代を作り上げた。現在の九重部屋、八角部屋の力士が孫弟子、曽孫弟子である。また、門下ではないが、伊勢ヶ浜部屋の力士の四股名につけられる「〇〇富士」も、実は北の富士から千代の富士、旭富士を経て受け継がれたものである。

相撲協会で理事を務めたが、一門内の理事選談合に嫌気がさし、定年前に相撲協会を退職して、相撲解説者に転身した。

2023年以降、解説者として休場していたが、2024年7月14日令和六年大相撲名古屋場所初日に姿を見せた。

記録[編集]

  • 十両15戦全勝(1963年九州)- 北の富士以降、43年間記録者が出なかった。
  • 新入幕13勝 - 現在も最多記録タイ[注 2]
  • 大関昇進前3場所28勝 - 北葉山と共に大関昇進前最少勝利数。
  • 横綱経験者の80代到達 - 栃ノ海に次いで5人目。

同時代の主な好敵手[編集]

  • 横綱 玉の海
  • 横綱 琴櫻
  • 大関 豊山
  • 大関 清國
  • 大関 大麒麟
  • 関脇 長谷川

演じた俳優[編集]

[編集]

  1. 2021年1月の栃ノ海晃嘉逝去後は最年長の横綱経験者である。
  2. 後に陸奥嵐逸ノ城尊富士も記録。