2011年J1第7節 川崎フロンターレ対ベガルタ仙台
仙台中心になってもええで |
この記事はその主題がベガルタ仙台に置かれた記述になっており、中立的観点から説明されていない可能性がありますが、ノートでの議論の必要はありません。(2023年5月) |
大会名 | 2011 Jリーグ ディビジョン1 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
| |||||||
仙台が逆転勝利 | |||||||
開催日 | 2011年4月23日 | ||||||
会場 | 等々力陸上競技場(神奈川県) | ||||||
主審 | 柏原 丈二 | ||||||
観客数 | 15,030人 | ||||||
天気 | 雨 (17.5°C) | ||||||
← Twitter |
この項目では、2011年4月23日に行われたJ1リーグ 第7節のうち、神奈川県川崎市の等々力陸上競技場で行われた、川崎フロンターレ対ベガルタ仙台について述べる。この試合は2対1で仙台が勝利し、東日本大震災による中断後初戦で逆転勝ちを収めた。
本試合は1993年から2022年までの30年間のトップカテゴリーのリーグ戦、計8,574試合の中からJ30ベストアウォーズのベストマッチに選出。過去にJクロニクルベストにおいても同じくノミネートされた。
背景[編集]
前の年に7年ぶりにJ1に復帰した仙台は14位でシーズンを終え、今年はサッカー日本代表の関口訓充、完全移籍で残留したエースストライカーの赤嶺真吾に加えて実績十分な柳沢敦、角田誠、曺秉局、マルキーニョスらを獲得するなど積極的な補強により上位進出を伺っていた。一方で前年5位の川崎も山瀬功治、田中裕介、柴崎晃誠らを獲得し悲願の初優勝を狙っていた。両チームの通算対戦成績は仙台の2勝3分9敗。
1月25日から始まった40日間のキャンプを終えて、そのまま広島入りしてサンフレッチェ広島との開幕戦を戦い帰仙したチームは、敵地でのスコアレスドローに手ごたえを感じながらも3月12日の名古屋グランパスとのホーム開幕戦に備えていた。そうした中で3月11日14時46分に未含有の震災が起こった。J1リーグは第2節から第6節、J2リーグは第2節から第7節までが史上初の延期となり、両チームはこれがシーズン2試合目となった。
3月28日、仙台は震災の影響で本拠地のスタジアムやクラブハウスも被害を受けて一旦活動を休止していたが、現地で支援活動を続ける傍らでクラブハウスに再集合した。関係者全員の無事を確認した所で、「被災地への訪問は、そこで感じたものを自分達のパワーにするためにも必要だと思った」という手倉森誠監督の意向もあり、チームは宮城県石巻市へと向かった。「声も出ない程の光景でした。」「僕たちはサッカーをやっていて本当にいいのかと不安な気持ちがありました。」とある選手が言ったように津波で甚大な被害を受けた被災地の光景に選手達は言葉を失った。
翌日、練習前のミーティングで手倉森監督は「被災地のチームとして、この地の希望の光になろう」と呼びかけた[1]。
やがて地元でのトレーニングが難しくなり、仙台はホームタウンを離れて、千葉県市原市と埼玉県さいたま市でキャンプを張り、リーグ再開に備えた。しかし、新キャプテンの柳沢が怪我で離脱し、補強の目玉として獲得したマルキーニョスも4月7日の余震の後に当時の婚約者の反対により、開幕戦に出場したのみの退団を余儀なくされた。
4月10日、キャンプで最初の実践となった大学生との練習試合には仙台サポーターがわざわざ市原にまで駆けつけて、震災以来聞かれなかった「ベガルタ仙台!!」をコールして横断幕を掲げた。中断によるブランクや主力の離脱など、精神的にも肉体的にも厳しい状態で関東でキャンプを始め、続々と届けられる被災地からの声援や、他地域からの支援で復興への想いを強め、リーグ再開当日を迎えた。
試合当日[編集]
肌寒さの残る雨の等々力陸上競技場でのゲームには15,000人の観客が詰めかけていた。対戦相手の川崎は中断中に川崎駅前で募金活動を行うなど積極的に被災地支援をしてきたチームの一つであるが「仙台は背負うモノが沢山あるが、サッカーはサッカー、勝ち点3を取りに行きます。」と中村憲剛が話したように本気で勝ちに来ていた[2]。会場では募金活動、義援金用に宮城の物産販売、大東和美チェアマン(当時)や元川崎F川島永嗣、元仙台岡山一成によるメッセージを含むPVが流れた。本年はシーズン終了までJリーグの全会場で被災地への募金活動が行われたり、サッカー教室を開くなど、全国のチームやサポーターが支援の輪を広げた。
試合前には川崎サポーターが「一緒に頑張ろう」「ともに戦おう」「FORZA SENDAI」等の横断幕を出して、仙台のチャント「TWISTED」を歌い盛大な拍手と共に迎え入れた[3]。会場には当時の日本代表監督アルベルト・ザッケローニ氏の姿もあった。
仙台サポーターが陣取るアウェイ席2,500席は即日完売。中継の映像には仙台サポーターが作成した「全ての仲間にありがとう。故郷を取り戻すまで俺達は負けない!」「宮城の希望の星になろう」「共に歩もう前を向いて」と書かれた横断幕、「共闘」のゲーフラが映し出された。また、仙台のベンチには千羽鶴と柳沢の背番号30番の2ndユニフォームが飾られ、チーム関係者全員で勝負する姿勢を見せた[4]。両チームの選手達は喪章を付けて入場し、キックオフ直前には観客が立ち上がり、ピッチにいる22人がセンターサークルを囲んで黙祷を捧げた。
2011年3月11日の東日本大震災から1か月半後の4月23日、未含有の大震災に見舞われてもそこから立ち上がり被災地の「希望の光」となるべく最後まで奮闘した仙台。ピッチ外で様々な支援の輪を広げ、礼節を尽くして真剣勝負で応えた川崎、そこにサポーター同士の垣根を超えた交流も生まれ、選手のみならず正にスタジアムが一体となって作り上げた一戦だった。
試合結果[編集]
展開[編集]
試合開始から細かいパスワークで攻め込む川崎、鋭いショートカウンターで反撃する仙台の構図となった。前半37分、登里享平のスルーパスから右サイドに抜け出した山瀬が仙台DF鎌田のタイミングをずらしてマイナスに折り返し、それを田中がグラウンダーで流し込み川崎が先制する[5]。その後は、川崎のFKになってもすぐにどかない仙台の選手に向かって川崎の選手がボールを蹴ったり、仙台も激しいチャージをして警告を貰うなど両チームの選手は勝利を求めて熱くなる一幕も。得点後も川崎が仙台を攻め込んで前半が終了する。
前半終了時のインタビューで手倉森は「勿体ない失点だった。雨で予測できない裏へのパスを受けたが、逆に私達にも同じチャンスはあるので慌ててはいない。この戦い方を続けて、相手にプレッシャーを与え続けたい。」と話した。
後半からは仙台も果敢に攻める回数が増えて膠着状態に陥り、両チームともチャンスを作るも決めきれない場面が続く。
後半27分、ペナルティエリア左手前で梁勇基と井川祐輔が競り合ったボールを赤嶺が拾うと、逆サイドでギアを上げて駆け上がる太田吉彰に横パス。これを太田が倒れ込みながらも躊躇なく蹴り込むと、シュートブロックで滑り込んだ横山知伸の左足に当たって軌道が変わりキーパーの前でバウンドしてゴール。スタミナの配分も考えずに走り回っていた太田は得点後に足が攣り担架で交代した。
その後に川崎はスピードのあるジュニーニョを投入し攻撃の圧力を強める。次の点を入れた方が勝つという試合終盤、川崎の選手にも警告が出て試合の強度も更に上がり、両チームのサポーターの熱も一層上がる。
そして後半41分、右コーナーエリア付近で横山が中島裕希にファウルし仙台がフリーキックを獲得。この日一番の「せん!だい!レッツ ゴー!」のコールが鳴り響く中で梁がボールをセット。狙いすました放物線は鎌田次郎の頭にピンポイントで合い、ヘディングシュートはゴール外から回転した軌道でポストに当たり、仙台サポーターのいるゴール裏に向かって突き刺さった。試合開始から劣勢を強いられていた仙台が遂に逆転に成功した。
しかし解説の長谷川健太は「ここからまだわかりません。私も監督時代に経験しましたが、等々力でやる場合は笛が鳴るまで何が起こるかわからない。」と警鐘を鳴らした。交代枠も使い切った川崎であるが、その後はDFの井川と横山を前線に上げ、攻撃も持ち味である細かいパス回しから、ゴール前へのロングボール放り込みに変えるくらいにプライドを捨ててまで攻め立てた。それでも得点力のあるチームの前線が5枚となった状態でも仙台は凌いで試合終了。仙台の運動量が最後まで落ちなかったのは、手倉森監督が「守備と攻撃の意識、気持ちを表現できる選手」を起用したと試合前に実況が説明していた。
こうして仙台は過去の試合で1分6敗と一度も勝てなかった鬼門、等々力陸上競技場で初勝利を挙げた。震災の影響で東北地方を中心に社会全体が落ち込む中、被災地の希望の光となるべくチームが団結。チームの財政基盤が同カテゴリーの中でも下位でありながらも、戦う姿勢を前面に打ち出すサッカーでリーグ12戦連続無敗、終盤戦にも再び11試合連続無敗を記録して粘り強さを見せつけ、クラブ史上最高の4位でフィニッシュし、翌年のJ1リーグ準優勝、初のACL出場に繋げ奇跡の快進撃を見せた。
仙台のゴールについて[編集]
執念の同点ゴールを決めた太田は「直前のイーブンな競り合いがすべて仙台側にこぼれて、そのボールが僕の下に届けられました。シュート自体も全然ミートしておらずDFに当たってゴールに吸い込まれていくのがスローモーションで見えました。普段なら陳腐な表現になってしまいますが、あの時は本当にサポーターの想いも、被災地の想いも、チームメイトたちの想いもすべてがこもって、全員で獲ったゴールだったと思います。」と振り返った[6]。また、「同点後には雰囲気が一変しました。『いけるんじゃない』という空気がありました」とも語った。
試合に出ていた角田も「『何で入るんや』っていうゴール。普通だったら入らないシュートだった」と述べ、解説の長谷川は「これは相手が触らなかったら入らなかった。色んなパワー、力が加わったんじゃないかと思います。」と驚きを隠さなかった[7]。
河北新報は、太田の同点ゴールについて「スポーツの試合ではまれに、神様がほほ笑んでくれたと思う瞬間がある。」「選手の、サポーターの、そして被災地の思いが神様に届いたかのようだった。」などと人智を超えた神がかり的なゴールとして表現[8]。
二点目についても「今考えると、あんなに遠い位置からヘディングを叩くことはほとんどない。何か目に見えないものに突き動かされたゴールだったのかなと思います」と、殊勲の鎌田は通常のゴールの瞬間とは異なっていたと感極まった瞬間を振り返った[9]。
放送[編集]
この試合は地上波ではNHK BS1 (実況:吉松欣史、解説:長谷川健太、リポート:一橋忠之) が生中継した。かつて仙台放送局に勤務した吉松アナウンサーが実況を、盛岡放送局に赴任経験がある一橋アナウンサーがベンチサイドリポートを担当したが、震災が起こる前から決まっており運命的だった[10]。
仙台市青葉区の「壱弐参 (いろは) 横丁」のパブリックブューイングの様子も映し出され、仙台放送局の高瀬登志彦アナウンサーが狭い路地に100人以上いた仙台サポーターのリポートを担当した。試合前に高瀬アナウンサーからインタビューを受けた仙台サポーターは「震災後ずっと待っていたので本当に嬉しいです! 被災者に勇気と希望を与えてください!!」と試合開始が待ちきれず、直後に「せん!だい!レッツ ゴー!」のコールが周囲の同志から自然発生した。
長谷川は勝ち越しゴールとなったセットプレーの前に「もしかしたらポイントになるプレーになるかもしれませんね。」と話し、吉松アナウンサーは鎌田の勝ち越しゴールについて「勝ち越しゴールは仙台!綺麗に決まった鎌田のゴール!」「精度の高いボール!そして綺麗に決めた鎌田次郎!」と実況した。二点目が決まった瞬間、逆転に興奮する壱弐参横丁の様子も映し出された。
試合終了直後には一橋アナウンサーのインタビューで、手倉森監督が「東北のためにね……精一杯……」と涙ながらにコメントした。
試合データ[編集]
|
|
スタッツ | 川 崎 | 仙 台 |
---|---|---|
得点 | 1 | 2 |
シュート数 | 6 | 6 |
コーナーキック | 3 | 7 |
ファウル | 18 | 14 |
オフサイド | 3 | 4 |
イエローカード | 1 | 1 |
レッドカード | 0 | 0 |
挿話[編集]
- J2発足時のオリジナル10として切磋琢磨してきた両チーム。サポーター同士も親交があり、スタジアムの客席に緩衝エリアが設けられない対戦カードとしても有名。
- 「支援はブームじゃない。」その合言葉を胸に、独自の被災地復興支援活動として「東日本大震災復興支援活動Mind-1ニッポンプロジェクト」を2011年に立ち上げ、川崎も継続的に活動を行ってきた[11]。
- 2020年3月20日公開の映画「弥生、三月-君を愛した30年-」は東日本大震災とベガルタ仙台がモデルになっており、クラブが撮影協力をした。
- 震災から10年の節目のシーズン、仙台の開幕戦と第2戦の相手は10年前と同じ広島と川崎の順番で、監督も当時と同じ手倉森[12]。
- 10年後のシーズンとなる2021年3月6日、J1リーグの第2節は東日本大震災10年プロジェクト、復興応援試合として同じ対戦カードが実現[13]。今度は仙台のホームで行われたが、その試合では仙台サポーターがコロナ対策による入場制限で来場できない川崎サポーターの応援フラッグをスタジアム内に掲出したことが話題となった[14]。
- 両チームに在籍経験があり仙台で共闘した板倉滉とシュミット・ダニエルは共に海外移籍を経て研鑽してから、カタールW杯の日本代表となり、ドイツやスペインといった歴代のW杯優勝国をグループリーグで撃破して1位で決勝トーナメントに進出した。
- J30ベストアウォーズで紹介の際に司会の生島ヒロシが「東日本大震災で甚大な被害を受けた仙台が震災後初のゲームで川崎フロンターレと対戦し…」と紹介の途中で涙ぐみ、嗚咽するひと幕も。「ちょっと僕は宮城なもので…。この試合、覚えているんですが、今も思い出して…。申し訳ありませんが…」と謝った。
メディア[編集]
- 『サッカーダイジェスト増刊 永久保存版「復興のシンボル」2011シーズン ベガルタ仙台激闘号』(サッカーダイジェスト、雑誌、2012年1月)
- 「“ベガルタ”〜サッカー、震災、そして希望〜」(NHK BS1、ドキュメンタリー映画、2016年12月14日)
- 「あの試合をもう一度!スポーツ名勝負 東日本大震災・復興への誓いをチカラに 川崎フロンターレ 対 ベガルタ仙台」(NHK BS1、2022年3月11日)
- Jリーグ30周年名勝負選「復興への誓い '11 震災後初試合」(NHK BS1、2023年5月13日)
脚注[編集]
- ↑ 『週刊サッカーダイジェスト増刊 永久保存版「復興のシンボル」2011シーズン ベガルタ仙台激闘号』 日本スポーツ企画出版社、2012年1月1日。
- ↑ 中村は1ゴールおよび1アシストを記録するごとに10万円を義援金に充てると発表した。
- ↑ “川崎Fサポーターから届けられたフラッグを掲げる仙台サポーター”. 日刊スポーツ. 2023年5月17日確認。
- ↑ これらの弾幕はシーズン終了後もしばらく掲げられた。柳沢は怪我で戦列を離れていた。
- ↑ 田中は移籍後初ゴールとなった。
- ↑ 『サッカーダイジェスト No.1435「日本サッカー激動の30年史」』 日本スポーツ企画出版社、2019年5月9日。
- ↑ “【鎌田次郎が語る「川崎―仙台」の裏側(1)】「本当にサッカーやってていいのか」と自問自答したJリーグ30年ベストマッチ…練習拠点は半壊、新幹線も不通で迎えた再開初戦”. サッカー批評. 2023年5月17日確認。
- ↑ “河北春秋(2/27):スポーツの試合ではまれに、神様が…”. 河北新報. 2023年5月17日確認。
- ↑ “【鎌田次郎が語る「川崎―仙台」の裏側(2)】「今考えると、あんなに遠い位置からヘディングを叩くことはほとんどない。何か目に見えないものに突き動かされたゴールだった」”. サッカー批評. 2023年5月17日確認。
- ↑ “仙台vs川崎Fはみちのく実況で生中継”. 日刊スポーツ. 2023年5月17日確認。
- ↑ “【川崎】支援はブームじゃない。東日本大震災から11年、今年も示した継続することの大切さ”. サッカーダイジェスト. 2023年5月17日確認。
- ↑ 開幕戦は同じく引き分けに。
- ↑ 東日本大震災10年プロジェクト (記事)
- ↑ “震災から10年…川崎vs仙台、2011年の試合で流された「伝説のビデオメッセージ」を知ってる?”. Qoly. 2023年5月17日確認。