香川親和

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香川 親和(かがわ ちかかず、永禄10年(1567年) - 天正15年(1587年))は、戦国時代武将長宗我部氏の一族で家臣[1]

略歴[編集]

父は長宗我部元親で次男。母は正室元親夫人。同母兄に長宗我部信親。同母弟に津野親忠長宗我部盛親がいる。通称は五郎次郎[1]

天正9年(1581年)に元親が讃岐国に進出した際、同国西部6郡を支配する天霧城主・香川信景養子となって香川家を継承した[1]

天正13年(1585年)、元親が豊臣秀吉四国征伐で讃岐国を失うと、親和は土佐国岡豊城に戻ってその庇護下に置かれる。天正14年(1586年)12月、長兄の信親が九州征伐の際の戸次川の戦い戦死し、長宗我部家で後継者問題が起こると、親和は実家に復籍して家督を相続することを望むが、元親からは何の沙汰も無く手当を与えられるのみだった[1]。元親は末弟の盛親を後継者にすることを望んでおり、親和に譲る気は無く、親和を推す吉良親実比江山親興らの諫言も無視していた。

家督を相続できないことを知った親和はやがて病気になり、天正15年(1587年)に岡豊において病死した。享年21。岡豊山の北の小野谷に葬られた[1]

この親和の死は憤死とも、あるいは元親により密かに殺害されたとも、親和自身が自殺したとも言われており、諸説あって定かではない。

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e 山本大「長宗我部元親のすべて」P189

参考文献[編集]