比江山親興

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比江山 親興(ひえやま ちかおき、? - 天正16年(1588年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長宗我部氏の一族で家臣。土佐国長岡郡比江山城[1]長宗我部元親の従兄弟に当たる。

略歴[編集]

父は長宗我部国康で次男。兄は戸波親武。甥に戸波親清。父の国康は長宗我部国親の弟なので[1]、親興は元親の従弟に当たる。官途は掃部助。

元親に一門衆として仕え、天正10年(1582年)に元親が阿波国を平定すると、同国岩倉城主に任命された。天正13年(1585年)の豊臣秀吉四国征伐により元親が秀吉に降伏すると、親興は岩倉城を放棄して比江山城に帰還した[1]

天正14年(1586年)12月、戸次川の戦いで元親の長男・信親戦死し、長宗我部家中で元親の後継問題が発生すると、親興は元親の次男・香川親和や3男・津野親忠らを推して、久武親直が推す4男・長宗我部盛親の一派と対立し、元親を諫言する。しかしこれが元親の怒りを買い、吉良親実と同じように一族もろとも討伐されて殺された[1]

現在、比江山城跡の詰の段に、親興を祀る比江山神社が建立されている[1]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e 山本大「長宗我部元親のすべて」P205

参考文献[編集]