吉良親実
吉良 親実(きら ちかざね、永禄6年(1563年)ー 天正16年10月14日[1](1588年12月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の一族で家臣。土佐国吉良城・蓮池城主。
生涯[編集]
長宗我部元親の弟・吉良親貞の子で、元親の甥に当たる。妻は元親の娘なので、元親の義理の息子にも当たる。仮名は新十郎[2]。
天正4年(1576年)7月に父が死去したため、家督を相続して吾川郡弘岡の吉良城主となる。後に元親により高岡郡蓮池城主に移された[2]。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉の大仏建立に際して、元親は用材の供出を命じられていたが、その材木搬出の奉行に久武親直が任命され、親実も親直に協力するように命じられた。ところが、親直に非礼があったとして親実は激怒して親直の笠を射る事件を起こし、これを機に両者は不仲となった。同年末の戸次川の戦いで元親の嫡子・信親が戦死し、これにより後継者問題が起こると、親直は元親の意をくんで4男の盛親を立てること、信親の娘を盛親に嫁がせることなどに賛成した。これに対して親直と対立していた親実は、盛親が若すぎること、当時とはいえ叔父姪の結婚はあまり歓迎されるものではないことから、同じ長宗我部一族の比江山親興と共に反対に回った。親実は香川親和か津野親忠を立てることを主張し、元々の剛毅果断な性格もあって強く諫言を繰り返したことから、信親を失って度量を失っていた元親の怒りを買うことになる[1]。
そして、天正16年(1588年)、遂に度重なる諫言に切れた元親により、使者の桑名吉成が小高坂にいる親実の屋敷に賜死の命を伝え、親実は自害することになった[1]。享年26。弟の如渕や比江山親興ら、親実と同調して元親に諫めていた一派もことごとく連座により一族まとめて処分された。親実の介錯は家臣の葉山安之丞が務め、彼もまた主君に殉じた[3]。
Wikipediaでは没年がめちゃくちゃで忌日すらわかっていない低能ぶりであるが、天正16年(1588年)10月14日が最も有力視されている。ただし、天正17年(1589年)、天正18年(1590年)説も存在する[1]。
親実の死後、それにまつわる怪異が絶えず発生したため、吾川郡木塚に親実の霊を祀る木塚明神が建立された[1]。また、介錯を務めた安之丞の遺児・五郎右衛門はこの元親の処置を恨み、関ヶ原の戦いの後に長宗我部家を裏切っている[3]。