津野親忠

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津野 親忠(つの ちかただ、元亀3年(1572年)- 慶長5年9月29日1600年11月4日))は、安土桃山時代武将長宗我部氏の一族で家臣長宗我部元親三男[1]

生涯[編集]

父は長宗我部元親。母は斎藤利三の妹・元親夫人。仮名は孫次郎[1]

土佐国衆の津野氏では、親忠が生まれる1年前に津野定勝が家臣によって追放され、その子の勝興が家督を継承して元親に降伏していた。元親はその勝興に親忠を養子として入れた上で三宮平左衛門の娘を妻にして津野家を継承させた[1]

天正13年(1585年)、豊臣秀吉四国征伐によって元親は秀吉に降り、臣従の証として親忠が人質として秀吉の下に送られた。天正14年(1586年)12月、戸次川の戦いで元親の長男で親忠の同母長兄に当たる長宗我部信親戦死し、長宗我部家の家督相続問題が発生。この際に親忠は同母次兄の香川親和と共に元親の後継者として従弟吉良親実、一族の比江山親興らに推されたが、元親はこの2人を他家に養子に出ていることを理由に除外し、同母末弟の長宗我部盛親を後継者に指名した。ただ、真の理由は親忠が人質時代に藤堂高虎と親交を深めていたことが指名されなかった理由だといわれている。どちらにせよこの後継者問題で親和は謎の急死を遂げ、親忠の立場も微妙になり、彼らを推した吉良や比江山らも厳しく処断されてしまった[1]

慶長4年(1599年)3月、既に死期を悟りつつあった元親は親忠を疑い、土佐国香美郡岩村に幽閉してしまう。同年5月に元親は死去し、盛親が後継者となった。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで盛親は西軍に属して東軍徳川家康と敵対し敗れた。このため、盛親は御家存続のために家康に謝罪を申し入れるが、その最中に親忠が高虎と結んで長宗我部家の家督を奪おうとしている、あるいは家康から長宗我部家存続のために裏工作をしているなどの噂が流れたとされ、これを疑った盛親は関ヶ原本戦からわずか2週間後の9月29日に親忠を岩村の孝山寺(霊巌寺)において殺害した。享年29。この殺害に関しては盛親は全く関与しておらず、側近の久武親直による独断ともいわれ定かではないが、このことを知った家康は激怒して1度は許す予定だった長宗我部家の存続を取り消して改易処分に処したという[1]

法号は雪庭宗尹[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e f 山本大「長宗我部元親のすべて」P200

参考文献[編集]