陽雲寺 (上里町)
陽雲寺(よううんじ)とは、埼玉県児玉郡上里町金久保701に存在する寺院である。宗派は曹洞宗。山号は崇栄山。」
概要[編集]
神保原駅の北西およそ2キロ、国道17号線北側の田園地帯に存在する寺院で、鎌倉時代前期の元久2年(1205年)に創建されたといわれる。初めは唄樹山満願寺と称していた。
元弘3年/正慶2年5月(1333年)に新田義貞が鎌倉幕府討幕に立ち上がった際、この寺で討幕を祈願して不動堂を造立したといわれている。このため「新田勝軍不動堂」と言われるようになり、室町時代になると金窪館主の斎藤氏から手厚い帰依を受けた。
天正19年(1591年)に金窪の領主となった川窪信俊は徳川家康の家臣であるが、元は武田信玄の実弟・武田信実の子である。彼は伯父・信玄の夫人を引き取ってここに入ったとされ、夫人はこの寺の境内に居住し、元和4年(1618年)に死去したという。この関係で信俊は、夫人の菩提を弔うためにその法号である陽雲院をとって、寺号を崇栄山陽雲寺と改称したという。
このように武田信玄ゆかりの寺院であるため、寺宝には信玄自筆の起請文や書状、判物などが6点、さらに古河公方・足利政氏の判物が1点、所蔵文書として存在し、これらは埼玉県指定の文化財となっている。ほかに江戸時代前期の元禄8年(1695年)に鋳造された銅鐘があり、これも埼玉県指定の文化財かつ国の重要美術品に認定されている。また「伝武田信玄・陽雲院夫妻画像」があり、この肖像も県指定の文化財となっている。
陽雲院とは誰か[編集]
陽雲院については武田信玄の正室と言われている。信玄の正室は扇谷上杉家の上杉朝興の娘で早世した上杉夫人と、三条公頼の娘である三条の方しかいない。寺伝で見る限りは三条公頼の娘とあるため、恐らく後者を指しているのだと思われる。ただ、寺伝では名前が秀姫、天文5年(1536年)に15歳で1歳年上の信玄に嫁いだとあり、この時点で既におかしい。三条の方の正式な名乗りは史料では確認されていないし、そもそも15歳なら信玄と同年かあるいは1歳年下のはずである。寺伝ではさらに元亀4年(1573年)4月に信玄が陣没すると、仏門に入って陽雲院と称したとあるが、三条の方は信玄より3年前に亡くなっており、これも辻褄が全く合わない。最終的には川窪信俊に引き取られ、その際に信俊の養母になって97歳の高齢で没したというのである。
なお、「伝武田信玄・陽雲院夫妻画像」は狩野元俊の作品で、寛文9年(1669年)に彼が82歳の時に書いたものと言われているが、この寺伝が事実なら少なくとも元俊は信玄には会ったことはないはずである(三条の方とも会ったとは考えられず、陽雲院とは誰のことなのか全くわからない)。そもそも、三条の方の法号は「円光院」である。