金窪館
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金窪館(かなくぼやかた)とは、現在の埼玉県児玉郡上里町金久保にかつて存在した居館である。一説に金窪城(かなくぼじょう)ともいわれる。
概要[編集]
神保原駅の北西およそ1.5キロ、国道から北へ500メートルほど入ったところにある神保川に臨む崖の上にあった館である。平安時代末期の源平争乱の頃の治承年間(1177年 - 1181年)に、武蔵七党の1つで丹党から出た加治家治の構築と言われ、鎌倉幕府滅亡の前後に新田義貞が修築を加えて家臣の畑時能を入れたが、畑は義貞死去の翌年に斯波高経に敗れて戦死した。
室町時代中期の寛正(1460年 - 1466年)に、斎藤実盛の子孫である斎藤盛光が居城とした。そして盛光の曽孫である斎藤定利は北条氏政に仕えたが、天正10年(1582年)6月に本能寺の変で織田信長が死去したために起こった神流川の戦いで戦死し、この際に斎藤一族の多くも戦死して館は焼け落ちたという。
天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏政が自殺して後北条氏は滅亡し、その後に関東に入った徳川家康は、天正19年(1591年)に武田信玄の甥で自らの家臣となっていた川窪信俊に8000石を与えて金窪館に入れた。信俊は後に武田に復姓したが、曽孫の武田信貞の時代である元禄11年(1698年)に丹波国に移封され、この際に金窪館は廃された。
館跡は東西およそ320メートル、南北230メートル余りで、現在はその大部分が畑や雑木林になっているが、一部に堀や土塁が残されており、埼玉県指定の旧跡となっている。