陳宮 (公台)
陳 宮(ちん きゅう、198年12月)は、中国の後漢末期の武将。字は公台(こうだい)[1]。曹操、そして呂布の参謀として仕え、後に呂布の滅亡に伴って処刑された。
生涯[編集]
曹操の時代[編集]
兗州東郡武陽県(現在の山東省と河南省の境目)の出身[1]。若い頃から天下の著名人と親交を結んで、剛直で気迫に満ちたという[1]。曹操に早くから仕えて、192年に兗州刺史の劉岱が黄巾賊の反乱で戦死すると、曹操にこの地を拠点に天下を治める事が覇王の業である事を進言し、州内の別駕や治中に曹操を新たな主君として迎えるように説得して回り、さらに済北の相である鮑信らを賛同させて、曹操が兗州牧に就任するのに大きく貢献した(『世語』)。
だが、194年に曹操が徐州の陶謙討伐を再度開始した際、兗州の留守を任されていた陳宮は陳留郡太守の張邈、その張邈の弟の張超、従事中郎の許汜や王楷らと組んで曹操に対して謀反を起こした[1]。この際、自分たちの旗頭として董卓を暗殺した後に諸国を流浪していた呂布を新しい兗州牧に擁立し、鄄城・范・東阿を除く兗州領の大半を一時は制圧した[1]。この謀反に関しては、
- 曹操軍で新参の参謀である荀彧や程昱らが台頭し始めた事による嫉妬、反発[1]。
- 徐州で曹操が行なった大量虐殺への失望[1]。
- 張邈が呂布と手を結んだ事に激怒した袁紹が曹操と組んで自分を殺害しようとしているのではないかと猜疑していた。
など、諸説があり動機は明確ではない。
なお、陳宮はこの際に張邈に「今や英雄並び立つ。天下分裂の時代です。この陳留という四方に備えねばならない土地の防衛役をやらされている。剣に手をかけ、周囲を睨んだだけで立派に英雄で通る貴方だが、人の下風に立たされるとは、なんと情けないことか。今こそ立つべき時です。曹操は出陣して兗州は空っぽ同然。そして我々には呂布殿がいます。呂布殿は向かうところ敵なき勇士。彼と組んで兗州を手に入れ、形勢を伺いつつ情勢の変化を待つというのも、また有望な方策ではありませんか」と口説いて、曹操への謀反に参加させたという。
呂布の時代[編集]
陳宮は東阿を落とすために自ら攻め寄せるが、程昱が倉亭津の渡しを切ったために守備が強固になってしまい、落とせなかった[1]。195年、曹操が呂布軍の李封・薛蘭を打ち破ると、陳宮は呂布と共に東緡から1万の軍勢を率いて曹操に当たるが、曹操は伏兵を置いて呂布軍を破った[1]。以後、呂布軍は曹操軍に連敗し、またイナゴと旱魃のために大凶作となった事も災いし、遂に兗州を失って徐州の劉備を頼って落ち延びた[1]。
呂布が劉備から徐州を奪った後[1]の196年6月、『英雄記』によると呂布の部下である郝萌が袁術と通じて謀反を起こした際、陳宮はこの謀反に共謀していたとしている。謀反は呂布配下の名将・高順により鎮圧されるが、戦後に呂布は陳宮が大将であることから不問に付したという。
『献帝春秋』によると、198年に曹操により呂布が攻撃され、曹操が彭城まで進軍してくると、陳宮は『逸をもって労を撃つ』といういわゆる出撃策を進言したが、呂布は曹操の到着を待ってから泗水に追い込むことを考えていたので、これを受け入れなかったという。そして配下の裏切りで呂布が下邳に籠城する。陳宮は呂布に様々な策略を献策し、曹操から降伏勧告を受けた呂布がその気になると、陳宮は「逆賊曹操に降伏する事は、卵を石にぶつけるようなものであり、そんなことで身を全うすることができるものですか」と言って反対したという。また一説に陳宮はかつて曹操を裏切っている自覚があったため、これに反対したという。
『英雄記』によると、呂布は下邳城を包囲する曹操軍を城の内外から攻める事を考え、陳宮と高順に城を守らせて、自ら騎兵を率いて出撃して曹操軍の糧道を絶とうとした。しかし呂布の妻が「陳宮と高順は仲が悪く、2人で城を守り抜くことはできない」と反対したので、この策は中止されてしまった。一方で『魏氏春秋』によると、曹操軍を城の内外から包囲して攻撃する策略を献策したのは陳宮自身とされており、呂布が騎兵・歩兵の精鋭を率いて出撃し、陳宮は城に残って残りの兵で守り抜く。曹操が呂布の軍勢を攻めた時には城から陳宮が打って出て曹操を包囲攻撃する。曹操が城に攻撃してきたときには呂布が曹操の背後をつく。こうして曹操軍を疲労させて兵糧が尽くのを待ち、それを待って攻撃すればきっと勝てると進言したという。しかしこの策略は呂布の妻が「陳宮はかつて曹操に厚遇されながら、曹操を見捨てた」として信じられるのか、と言ったので呂布は策略を取り上げなかったという。
そして呂布の部下である魏続・宋憲・侯成の裏切りにより、陳宮は縛り上げられて曹操の下に送られる。呂布も降伏して生け捕りになった。
最期[編集]
『典略』によると、敗軍の将として呂布と共に曹操と面会した際、曹操から昔話を交わされた。そして曹操から「公台よ。君はいつも智謀が余るほどあると自負していたが、どうしてこのようなことになったのか」と尋ねられると、陳宮は呂布を指さして「この男が私の言う通りにしなかったため、こうなっただけだ。言う通りにしていれば、捕らえられたりしなかったのに」と言った。曹操は笑いながら「こうなったからには、どう始末をつけたらよかろう」と尋ねると「臣として不忠、子として不幸の罪を犯したのですから、殺されて当然です」と言った。曹操が「君はそうだとしても、君の年老いた母親はどうする」と言うと、「孝によって天下を治める者は、人の親を殺さないとか。母の命は明公(曹操)次第ということです」と言った。曹操が「ならば妻子は?」と尋ねると「仁によって政治を行なう者は、人の家の祭祀を絶やさないもの。妻子の命は明公次第でしょう」と言った。曹操は陳宮の智謀を認めており、できれば再度登用したいと考えていたが陳宮は曹操の返事を待たずに「早く処刑してください。軍法を明らかにするのです」と言って急ぎ足で曹操が止める間もなく処刑場に向かった。曹操は涙ながらに見送り、陳宮は振り返ろうともしなかったという。
陳宮の首級はこの際に処刑された呂布や高順と共に晒し首にされた後、許昌に送られて埋葬された。
陳宮の処刑後、曹操はその老母を庇護して終身において面倒を見たという。また陳宮の娘も庇護され、曹操から手厚い厚遇を受けて嫁ぎ先まで面倒を見られたという。
三国志演義[編集]
『三国志演義』では第4回で中牟県の県令として初登場し、董卓暗殺に失敗して指名手配されて逃亡していた曹操を捕らえる[1]。しかし曹操と話してその志に感じて一緒に逃亡するも、その途中で泊まった呂伯奢の一家を誤解からとはいえ皆殺しにしたことから、陳宮は曹操を殺害しようとしたが果たせず、曹操を見限って自分だけで落ち延びた[1]。その後、東郡の従事となり、陶謙とも親しい関係にあったため、曹操が曹嵩を殺害されて徐州に侵攻すると、陳宮は弁明のために曹操の下に赴くも一蹴され、呂布と組んで兗州を奪う。以後はほぼ史実通りに展開して処刑されている[1]。
人物像[編集]
陳宮は呂布の参謀として名高く、そのためか三国志関連の小説、漫画、アニメ、動画などでは三国志の数多い参謀の中でも人気が高い。また、曹操が処刑をためらって再度任用しようとしたほど惜しまれた智謀は曹操軍の参謀である荀攸からも認められていたようで「陳宮は智謀が高い」と評価している。ただし荀攸は「陳宮は智謀は高いが行動力が遅いから、策略が定まる前に決着をつけるべき」と、陳宮の行動力が愚図であるとも評価している。