労働文化研究所
労働文化研究所(ろうどうぶんかけんきゅうしょ)は、波多野鼎主宰の団体[1]。
波多野鼎が中京大学教授を務めるかたわら、名古屋市に中部経済研究会、労働文化研究所を設立した[2]。髙木邦雄によると、波多野は日本社会保障協会(1953年発足、1956年解散)の事業を賀来才二郎に任せた後、労働文化研究所を設立した[3]。重枝琢巳によると、波多野は1958年の王子製紙争議を契機として「労働運動の民主化、民主的労使関係の確立」の事業に挺身することになり、労働文化研究所を設立した[4]。所長は波多野鼎[5][6]、事務局長は池田英二[3]。講演や出版を行い[3]、労働運動の民主化、民主的労使関係の確立に大きな役割を果たした[2]。社会党右派系[1]。『文化運動便覧 1962年版』によると、民社党の理論活動を民主社会主義研究会議(民社研)が担い、その周辺には社会思想研究会、政治研究会、東京政治研究所、労働文化研究所などがあり、協力体制をつくっている[7]。
1959~1960年の三池争議に深く関与した[1]。1967年に熊沢製油産業(三重県四日市市)で総評化学同盟熊沢製油支部が争議を起こした際、会社側は第二組合を育成するため、労働文化研究所の指導・助言を受け、1971年に「めつぎ会」なる組織をつくり、1972年にこれを母体として第二組合が結成された[8][9]。日本製鋼所人材開発室副室長の郷田悦弘は、1964年頃から10年近く、労働文化研究所の嘱託講師として経営問題で日本電装の指導と教育にあたったと述べている[10]。
1959年から「労働文化シリーズ」を発行した。1962年発行の第43集まで存在が確認できる。1966年5月に鍋山貞親の著書『日本の安全と独立』を発行したことが確認できる。
1962年に完成した中経ビル(名古屋市中村区船入町、1977年より名駅五丁目)の9階に入居していた[11]。
事務局長・池田英二[編集]
著書『社会問題としての労使関係――特に親会社と協力工場における問題点』(くろしお出版、1961年)の「著者の略歴」には「1927年生まれ。松江高等学校文科を経て東京文理科大学哲学科卒業。民主社会主義連盟中部總局を設立、また労働文化研究所を設立。現労働文化研究所事務局長。おもな著書:「女子労働者の為の社会思想」「嵐の中の行進ー王子新労はこうして生まれた」「説得という名の暴力」「民主社会主義の哲学」など」とある。
著書に『社会問題としての労使関係』の他、『産業界に於ける社会問題』(晃洋書房、1977年)、『世界の労働事情』(啓文社、1980年)、『日本的経営管理の特質』(晃洋書房、1991年)がある。
労働文化シリーズ[編集]
- 1.重枝琢巳述『民主的労働運動の立場から』(1959年2月)
- 2.宇佐美忠信述『全労と総評――新しい労働運動の進む道』(1959年4月)
- 3.関嘉彦述『民主社会主義とマルクス・レーニン主義』(1959年2月)
- 4.鍋山貞親述『政治におけるデモクラシー 組合におけるデモクラシー』(1959年3月)
- 5.赤松常子述『労働組合の正しい運営――闘わずして勝つ組合』(1959年4月)
- 6.佐野博述『誤れる総評の運動方針』(1959年5月)
- 7.風間丈吉述『日本共産党の生い立ちとその性格批判――正しい自由の道はどこにあるのか』(1959年4月)
- 8.上西正雄述『健全な労使関係』(1959年6月)
- 9.竪山利忠述『民主的組合の賃金論――近代的賃金の意義について』(1959年6月)
- 10.気賀健三述、王子製紙水曜会編『社会主義の経済体制と資本主義の経済体制との違い』(1959年6月)
- 11.直井武夫述『組合政治主義の誤謬』(1959年8月)
- 12.和田春生述、王子製紙水曜会編『民主的労働運動と企業の繁栄――海員組合と船会社の関係』(1959年9月)
- 13.増原操述『生産性向上と労働組合』(1959年9月)
- 16.熊本良忠述『西ドイツの労使関係』(1959年11月)
- 17.山崎進述『生産性向上と成果の分配』(1959年11月)
- 18.土屋清述『完全雇庸のために』(1959年11月)
- 19.大野信三述『マルクス主義経済学の批判』(1959年12月)
- 20.三宅正也述、王子製紙水曜会編『ジョン・ストレイチー「現代の社会主義」について』(1959年12月)
- 22.森川覚三述『企業発展の原動力』(1960年2月)
- 23.中村菊男述『民主社会主義の進路』(1960年2月)
- 24.浦松佐美太郎述『労働者の家庭経済』(1960年2月)
- (14、21、25のどれか)野田信夫(タイトル、刊行年月日不明)[12]
- 27.江木武彦述『職場での話し方』(1960年5月)
- 28.本多顕彰述『進歩的文化人の生態』(1960年6月)
- 29.森川覚三述『経営管理の魂について』(1960年7月)
- 30.猪木正道『民主主義と社会主義』(1960年)[13][14]
- 31.塩路一郎述『日産労組の歩んだ道』(1960年9月)
- 32.重枝琢巳述『三池新労組の使命』(1960年9月)
- 33.本荘可宗述『社会思想の変遷と現代』(1960年11月)
- 34.竪山利忠述『総評の組識動揺とその原因――組合民主化運動の新たな抬頭』(1960年12月)
- 39.高山岩男『「第三の道」をめぐって』(1961年12月)[15]
- 40.大野信三述『民主的な福祉国家への道――これからの社会や経済に関する思考』(1961年11月)
- 43.猪木正道述『新しい社会思想の流れ――マルクス主義の克服』(1962年10月)
発行物[編集]
- 緋田工『労働組合に対する要望』(労働文化特集 第2集、1959年6月)
- 緋田工『"三貧"追放運動の提唱』(労働文化特集 第3集、1959年7月)
- 労働文化研究所編『嵐の中の行進――王子新労はこうして生れた』(労働文化シリーズ 特集5号、1959年9月)
- 山田清一『説得という名の暴力――王子製紙争議における人権じゅうりん問題』(1959年)[16]
- 波多野鼎『わが国の労使関係』(1963年11月)
- 波多野鼎『共産主義批判』(1964年8月)
- 波多野鼎『日本と中共』(1966年1月)
- 鍋山貞親『日本の安全と独立』(1966年5月)
- 斎藤忠『アジアのあらし』(1966年)
- パンフレット『人間環境会議をめぐって』(1972年7月)[17]
- 名取健昭『ロック・アウトの理論と正当性の諸問題』[18]
出典[編集]
- ↑ a b c 竹田誠「近代主義的労務政策の挫折と現代日本型経営者の登場――O製紙争議に現れた経営者類型」『大原社会問題研究所雑誌』第366号、1987年5月
- ↑ a b 片山内閣を支えた学者・政治家、波多野鼎農林大臣! 友愛労働歴史館、2018年4月16日
- ↑ a b c 髙木邦雄「思想の先駆者〈覚え書〉完」『改革者』第34巻第2・3号(通巻394・395号)、1993年6月
- ↑ 重枝琢巳「恩師 波多野先生を悼む」『改革者』第201号、1976年12月
- ↑ 「追悼・波多野鼎先生」『改革者』第201号、1976年12月
- ↑ 高木邦雄「波多野鼎先生を偲ぶ」『改革者』第201号、1976年12月
- ↑ 内外文化研究所編『文化運動便覧――左翼勢力の影響と実態 1962年版』武蔵書房、1962年、80頁
- ↑ 三重県地方労働委員会編『三重県地方労働委員会年誌 昭和49~52年度』三重県地方労働委員会、1978年、235頁
- ↑ 三重県商工労働部労政課編『三重県労働運動史 第3巻 昭和41~60年』三重県商工労働部労政課、1988年、123頁
- ↑ 郷田悦弘「国際化時代に対応した人材育成の実例」『組織革新・人材育成推進レポート』第2回、1978年11月20日
- ↑ 『中部経済新聞二十五年史』中部経済新聞社、1971年、68、133頁
- ↑ 『労働文化シリーズ』第1~25集の内不揃19冊分(15~17,19,22,24集欠) 日本の古本屋
- ↑ 松田義男「猪木正道著作目録」
- ↑ 民主主義と社会主義 労働文化シリーズ第30集 日本の古本屋
- ↑ 花澤秀文「高山岩男博士著作目録」『秋田法学』第6巻、1985年9月
- ↑ 説得という名の暴力—王子製紙争議における人権じゅうりん問題 日本の古本屋
- ↑ 森戸辰男、波多野鼎『日本を考える』労働問題懇話会[産業労働ライブラリー]、1973年
- ↑ 名取健昭『現代労働法の課題』啓文社、1982年