竹中氏
竹中氏(たけなかし)とは、日本の氏族である。織田信長・豊臣秀吉に仕えた参謀・竹中半兵衛重治で著名である。
概要[編集]
出自は清和源氏とされるが定かではない。美濃国不破郡の土豪で、岩手城主として当初は岩手氏を称したとされる[1]。
この一族が歴史の表舞台に立ったのは、美濃国の斎藤氏に仕えていた時代に竹中重治が世に出た頃である。当時、美濃をめぐって斎藤龍興と尾張国の織田信長は争っており、信長の度重なる侵攻に押され気味の斎藤家は重治の智謀をもって何とか凌いでいた。しかし、龍興の失政に失望した重治は舅の安藤守就と共謀してわずかな数で稲葉山城を乗っ取るという奇策を見せる。斎藤氏滅亡後、織田信長に仕えて羽柴秀吉の与力となり、信長や秀吉の主要な合戦の多くに参加して多くの武功を立てたが、天正7年(1579年)に惜しくも若死にした[1]。
重治の嫡子・重門は不破郡で5000石を与えられて大名にはなれなかったが、信長や秀吉に仕えて存続した。秀吉没後の関ヶ原の戦いでは当初西軍に属していたが、後に東軍に鞍替えしてその功により、戦後は5000石の交代寄合として江戸幕府の旗本に列した。なお、重門は秀吉の1代記である『豊鑑』を著している。そのほか、竹中宗家は1000石の旗本として分家が成立し、さらに重門の次男・重次の子孫は福岡藩主の黒田氏に仕えて福岡藩士として存続した[1]。
重治の弟・竹中重矩は姉川の戦いの際、信長の暗殺を謀って本陣に忍び込んだ浅井氏の家臣・遠藤直経を見破り、その首をとったことで知られる。重矩は天正10年(1582年)6月、本能寺の変後の混乱により美濃国で戦死した。
重治の従弟・竹中重利は信長や秀吉に仕え、文禄3年(1594年)に秀吉より豊後国高田城主として1万3000石の所領を与えられて大名となった。関ヶ原の戦いでは当初は西軍に属したが、後に東軍に転じたので所領を安堵され、慶長6年(1601年)に豊後府内藩主として2万石に加増移封された[1]。
しかし、重利の子・重義の時に長崎奉行として不正をしていたとして捕らえられ、その罪状により切腹となり、これにより府内藩竹中家は改易となった。