福島高晴
ナビゲーションに移動
検索に移動
福島 高晴 ふくしま たかはる | |||||||||||||||||||||||||||||
|
福島 高晴(ふくしま たかはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊勢国長島城主(1万石)。大和宇陀松山藩主(3万石)[1]。
生涯[編集]
父や兄と共に羽柴秀吉に仕え、秀吉から伊予国において5000石を与えられる。文禄3年(1594年)に伊勢長島城主として1万石を与えられ、大名となる。さらに尾張国知多郡10万石の代官に任命された。同年、秀吉による伏見城普請に参加した[1]。
秀吉の死後、徳川家康が政権を握ると正則と共に家康に接近。慶長5年(1600年)に家康による会津征伐が始まると、正則と共に参加。しかし、石田三成ら西軍の挙兵により征伐は中止され、高晴は正則と共に東軍に属し、そして大急ぎで本領の伊勢長島に戻り、家康の重臣である井伊直政の指示に従った。近隣の桑名城主・氏家行広は西軍に属したため、高晴は山岡道阿弥と共に桑名城を攻め、行広を桑名城から敗走させ、その残兵の多くを討ち取っている。戦後はその功績により家康から2万石を加増されて3万石の上で、大和国宇陀松山に所領を移されてその藩主となった[1]。
しかし、次第に藩政において専横な振る舞いが目立つようになり、慶長19年(1614年)には遂に家臣が家康にその振る舞いを訴えたという。しかし家康は、兄の正則に大きな功績があることから、この時は追及しなかった。だが、同年から大坂の陣が始まり、豊臣氏が滅亡すると高晴は豊臣氏に内通したという罪を受けて改易に処され、伊勢国山田に流罪にされた。寛永10年(1633年)9月25日に配所でそのまま死去した。享年61[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]