福島高晴

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福島 高晴
ふくしま たかはる
性別
年齢 61
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生年月日 天正元年(1573年
生誕地 尾張国海東郡(現在の愛知県あま市
死没日 寛永10年9月25日1633年10月27日
死没地 伊勢国・山田(現在の三重県伊勢市
死因 病死
肩書き 豊臣氏家臣徳川氏・家臣
国籍 日本国旗.png日本
配偶者 正室:村井貞勝の娘
継室:村上通康の娘
子供 正晴(長男、別名高経)、高広(次男)、玄興院(来島長親正室)、娘(五条為適室)、娘(西郊實号室)、娘(仏照寺某室)、娘(藤堂雅久藤堂高虎家臣)室)、助六
父:福島正信松雲院(豊臣秀吉の叔母)
家族構成 姉(別所重宗室)、正則高晴

福島 高晴(ふくしま たかはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名伊勢国長島城主(1万石)。大和宇陀松山藩主(3万石)[1]

生涯[編集]

父は福島正信で次男。長兄に福島正則がいる[1]

父や兄と共に羽柴秀吉に仕え、秀吉から伊予国において5000石を与えられる。文禄3年(1594年)に伊勢長島城主として1万石を与えられ、大名となる。さらに尾張国知多郡10万石の代官に任命された。同年、秀吉による伏見城普請に参加した[1]

秀吉の死後、徳川家康が政権を握ると正則と共に家康に接近。慶長5年(1600年)に家康による会津征伐が始まると、正則と共に参加。しかし、石田三成西軍の挙兵により征伐は中止され、高晴は正則と共に東軍に属し、そして大急ぎで本領の伊勢長島に戻り、家康の重臣である井伊直政の指示に従った。近隣の桑名城主・氏家行広は西軍に属したため、高晴は山岡道阿弥と共に桑名城を攻め、行広を桑名城から敗走させ、その残兵の多くを討ち取っている。戦後はその功績により家康から2万石を加増されて3万石の上で、大和国宇陀松山に所領を移されてその藩主となった[1]

しかし、次第に藩政において専横な振る舞いが目立つようになり、慶長19年(1614年)には遂に家臣が家康にその振る舞いを訴えたという。しかし家康は、兄の正則に大きな功績があることから、この時は追及しなかった。だが、同年から大坂の陣が始まり、豊臣氏が滅亡すると高晴は豊臣氏に内通したという罪を受けて改易に処され、伊勢国山田に流罪にされた。寛永10年(1633年)9月25日に配所でそのまま死去した。享年61[1]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P242

参考文献[編集]