来島康親
来島 康親/長親 くるしま やすちか/ながちか | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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来島 康親(くるしま やすちか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊後森藩の初代藩主。
生涯[編集]
父は来島通総。慶長2年(1597年)に父は豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加して戦死したため、当時は長親(ながちか)と名乗っていた嫡男が跡を継いで、伊予風早郡1万4000石の所領を相続した[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、長親は妻が福島正則の姪(養女)であるにも関わらず、西軍に属した。しかし、伊予を離れて大坂の河口部を守備していたのみが活動として確認されるだけで、その他の長親の活動は記録がほとんどない。長親は妻が福島正則の姪であるから心情的には東軍に属したかったが、周囲がほとんど西軍で、しかも隣に強大国の毛利輝元がいる以上、西軍に属さざるを得なかったのかもしれない。そのため、長親の活動は関ヶ原においてほとんど確認されず、むしろそれ以外の来島軍が積極的に活動していた。伊予に残っていた来島軍は毛利氏の軍勢が伊予に派遣されるとこれに協力しているし、叔父の通清は伊勢や尾張知多半島における東軍の拠点を攻撃したりするなど、積極的に西軍に加担していた[2]。
そのため戦後、来島氏は当然のように罪に問われることになる。これに対して長親はまず、徳川四天王の1人である井伊直政を通じて徳川家康に弁明するが不首尾に終わった。次に、家康の最側近であった本多正信に接近して粘り強く交渉した結果、長親は大名としての存続のみは許されることになった。ただし、従来の伊予から豊後に移封を命じられ、石高は以前と同じ1万4000石であったが、内陸部の森(現在の大分県玖珠町)に移され、従来の水軍力をほとんど失うことになってしまった。叔父の通清は福島正則の下に預けられた[2]。
慶長6年(1601年)、家康からの偏諱を受けて康親と改名する。慶長17年(1612年)3月15日に死去した。享年31[2]。家督は長男の通春が継承した。
系譜[編集]
父母
正室
子女
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]