国家社会主義
国家社会主義(こっかしゃかいしゅぎ)は、国家の手によって資本主義の矛盾を解決し、社会主義の実現を図ろうとする思想や運動である。
概要[編集]
(1)英語:State socialism、ドイツ語:Staatssozialismus - ドイツのラッサールの思想、ビスマルクの社会政策が代表的。ナチズム、ムッソリーニのファシズムを含めることもある。国家の死滅やプロレタリアートの国際連帯を唱えるマルクス=レーニン主義と対立したが、マルクス=レーニン主義を掲げていたソ連・東欧など現存した社会主義体制は国家統制を強めたため、これらの社会主義国(ソ連型社会主義)を指して使われることもある。
(2)英語:National socialism、ドイツ語:Nationalsozialismus - 一般的に英語圏ではナチズムのことを指す。ナチズム、ナチスという言葉の語源が国家社会主義ドイツ労働者党である。ただし、国家社会主義と訳すのは誤訳であり、国民社会主義、民族社会主義と訳すべきであるという説が有力になってきている。
日本の国家社会主義[編集]
日本の国家社会主義は、1898年に元民友社の竹越三叉が主宰する雑誌『世界之日本』に「国家社会主義」とは「国家の権力によりて社会主義を実行する者」と記されているところまで遡ることが出来る[1]。1905年には同じく民友社の山路愛山が国家社会党を結成している[1]。国家社会主義運動が活発化したのは昭和初期になってからで、これらの運動の参加者には左翼からの転向者が少なくなかった[1]。代表的な思想家は高畠素之、赤松克麿、北一輝。高畠素之は1919年に雑誌『国家社会主義』を創刊、1921年に大衆社を結成、1923年に上杉慎吉らと経綸学盟を結成した。1930年2月に高畠門下の津久井龍雄、上杉門下の天野辰夫らが愛国勤労党を結成した。満州事変後の1932年4月に高畠門下の赤松克麿らが社会民衆党を脱党し、5月に日本国家社会党を結成した。1933年6月に獄中にいた日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が転向声明を発表し、一国社会主義を主張した。1934年3月に高畠門下の石川準十郎が大日本国家社会党を結成した。赤松らが脱党した社会民衆党は国家社会主義や日本主義と対抗するため、1932年7月に社会大衆党を結成したが、次第に国家社会主義化し、1940年7月に大政翼賛会に合流した。北一輝(『国体論及び純正社会主義』『日本改造法案大綱』)や大川周明も国家社会主義的な思想を展開し、二・二六事件(1936年)を起こした皇道派青年将校などに影響を与えた。皇道派と対立した統制派や、ソ連の計画経済やナチスの戦時経済の影響を受けた革新官僚は、国家社会主義的な国家総動員体制の形成を推進した。
歴史学者の雨宮昭一は、国家総動員体制を担った政治潮流を国防国家派・社会国民主義派・自由主義派・反動派の4つに区分している。国防国家派は陸軍統制派(東条英機)や革新官僚(岸信介・賀屋興宣・和田博雄)などのグループで、上から軍需工業化を行おうとし、結果として社会の平準化や画一化を進行させた。社会国民主義派は風見章・麻生久・有馬頼寧・亀井貫一郎・千石興太郎など近衛文麿や昭和研究会周辺の人々で、下から社会の平準化や近代化を目指した[2]。この両派が「総力戦体制を推進し、大きな政府、福祉国家をつくり、それは戦後に継承された」としている[3]。