石川康勝

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石川 康勝
いしかわ やすかつ
性別
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生年月日 不詳
死没日 慶長20年5月7日1615年6月3日
死没地 摂津国大坂・天王寺口
死因 戦死
肩書き 豊臣氏家臣徳川氏家臣
国籍 日本国旗.png日本
階級 信濃奥仁科藩主
後任者 改易
父:石川数正:不詳
家族構成 康長康勝康次

石川 康勝(いしかわ やすかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名信濃奥仁科藩主。石川数正の次男[1]

略歴[編集]

父は徳川家康重臣で、西三河の旗頭と称された石川数正で次男。当初は家康の次男・結城秀康に付けられた。天正13年(1585年)に父・数正や兄・康長と共に徳川氏を出奔した際に同行し、そのまま豊臣秀吉に仕えた[1]

文禄元年(1592年)末頃に父が死去したため、家督と所領の大半は兄の康長が継承したが、この際に父の遺領から1万5000石(安曇郡奥仁科で、現在の長野県大町市白馬村生坂村など)を分与され、独立した大名となった[1]

慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に従い、家康が反転西上した際にはその3男・徳川秀忠の軍勢に従って中山道を進軍し、西軍真田昌幸が籠城する信濃上田城攻めに参加した。戦後は所領を安堵され、奥仁科藩主となる[1]

慶長18年(1613年)、豊国祭礼において豊臣秀頼の代理として参拝する。しかし同年、大久保長安事件が起きると、兄の康長と共に連座で罪を問われて改易となった[1]。これは家康が数正の出奔を恨んで報復したとする説もあるが定かではない。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣では豊臣方につき、翌年5月7日の大坂夏の陣の際に真田信繁の与力として共に奮戦するが、戦死した[1]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e f 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P176

参考文献[編集]