石川康長
石川 康長/三長 いしかわ やすなが/みつなが | |||||||||||||||||||||||||||||||
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石川 康長(いしかわ やすなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃松本藩主。石川数正の長男[1]。
略歴[編集]
父は徳川家康の重臣で、西三河の旗頭と称された石川数正で長男。当初は家康の次男・結城秀康に付けられた。天正13年(1585年)に父・数正や弟・康勝と共に徳川氏を出奔した際に同行し、そのまま豊臣秀吉に仕えた[1][2]。
文禄元年(1592年)末頃に父が死去したため、家督と所領の大半を継承。この際に弟の康勝と康次に所領をそれぞれ1万5000石、5000石と分与したため、康長の所領は8万石(あるいは6万石)となった[2]。
慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に従い、家康が反転西上した際にはその3男・徳川秀忠の軍勢に従って中山道を進軍し、西軍の真田昌幸が籠城する信濃上田城攻めに参加した。しかし昌幸の支城である子檀嶺岳城を攻めて敗走している。また、本領が信濃松本であることから、その後は木曽路攻略を任されていた大久保長安の監督下に組み入れられた。なお、関ヶ原の際に石田三成ら西軍が東軍諸将の人質を確保しようとした際、康長の上方に置かれていた人質も押さえられていたが、康長は家康に新たに人質を差し出して家康への忠誠を示し、康長の人質は8月20日に武蔵日野にある大久保長安の代官所に到着している[2]。
関ヶ原の際には諱を三長(みつなが)と称している[2]。その名乗りから、石田三成の偏諱を受けていた可能性がある。
戦後は所領を安堵され、信濃松本藩主となる。しかし慶長18年(1613年)、大久保長安事件に連座し、また領内の悪政、領地隠匿罪などにより幕命によって改易となり、その身柄は豊後佐伯藩主・毛利高政に預けられた[2]。この際に弟らも改易されている。この改易については数正の裏切りに対する家康の報復とする説も存在するが、定かではない。
寛永19年(1642年)12月11日に豊後佐伯で死去した[2]。
なお、大坂の陣の際に豊臣方として弟らと共に参戦して戦死したとする説もある。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]