生駒氏

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生駒氏(いこまし)とは、織豊政権期に大名となり、江戸時代には外様大名となった。一時期、旗本に転落したが、明治維新で大名に復帰した。

概要[編集]

藤原氏の流れを汲み、生駒姓に関しては大和国生駒荘(現在の奈良県生駒市)にちなむと言われている。生駒氏は織田信長側室生駒吉乃を輩出して信長と縁戚となり、その所生から信長の嫡男・織田信忠や次男・織田信雄、長女・徳姫などが生まれている。生駒親正は信長の家臣として仕えて功績を立てた。信長の死後、豊臣秀吉の時代になると親正は讃岐国高松城主となり、さらに豊臣政権下における三中老に列した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、親正は西軍、嫡男の生駒一正東軍に属したので、戦後に所領安堵されて生駒家は讃岐高松藩17万1800石の大名として幕藩体制を生きることになる。

寛永17年(1640年)、一正の孫・生駒高俊の時に生駒騒動と称される御家騒動を引き起こし、それを理由に1万石に減らされて出羽国矢島藩に移された。さらに子孫は万治元年(1658年)の遺領分割で8000石の旗本交代寄合)となったので、この時点で大名では無くなった。

明治元年(1868年)の維新立藩で、生駒家は高直しを受けて1万5000石で矢島藩主として復帰した。明治時代には男爵に列した。

系譜[編集]

脚注[編集]

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出典・引用
系譜関連
  1. 陸奥二本松藩主丹羽高寛の2男。
  2. 駿河田中藩主本多正矩の7男。
  3. 陸奥二本松藩主・丹羽長貴の子。
  4. 尾張藩士・山澄右近の2男。
  5. 豊前中津藩主奥平昌高の6男。
  6. 豊前中津藩主・奥平昌高の11男。
  7. 生駒俊徳の1男。
  8. 備前岡山藩主池田慶政の4男、親愛・親道の甥。

関連項目[編集]

生駒氏宗家

讃岐生駒家

矢島生駒家

外部リンク[編集]

讃岐生駒家

矢島生駒家