犬山城の戦い
犬山城の戦い | |
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戦争: 犬山城の戦い | |
年月日: 永禄5年(1562年)? - 永禄7年(1564年)8月? | |
場所: 日本・尾張国・犬山城(現在の愛知県犬山市) | |
結果: 織田信長軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田氏(信長軍) | 織田氏(信清軍) |
指揮官 | |
織田信長 丹羽長秀 |
織田信清 中島豊後守 和田新介 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
犬山城の戦い(いぬやまじょうのたたかい)とは、永禄5年(1562年)から永禄7年(1564年)にかけて行なわれた織田信長軍と織田信清軍の戦いである。
概要[編集]
信清の離反と小牧築城[編集]
織田信清は、信長の従弟である。信長の叔父・織田信康の嫡子である。信康は信長の父・織田信秀に従って斎藤道三と戦って戦死して、その跡を信清が継承していた。信清は晩年の信秀に一時期、尾州錯乱と称される反乱を起こしたが鎮圧され、その後は信秀、そして信長に従っていた。信長には同族・織田信安の岩倉城攻略、並びに美濃国攻略などで協力し、実弟の織田広良を十四条の戦いで失っている。しかし、信長の勢力が尾張の大半に及ぶに至り何らかの不安でも覚えたのか、美濃の斎藤龍興と結んで信長から離反した。
当時、美濃攻略を進めていた信長にとって犬山は絶対に必要な拠点であった。そのため、美濃攻略は後回しにしてまずは信清を制圧する必要に迫られた。永禄6年(1563年)、信長は清州城から小牧山に築城して小牧山城に居城を移した。そしてここから、犬山城を攻撃してゆくことになる。
犬山城攻略[編集]
信清の拠点は犬山城だが、その他に小口城(現在の愛知県丹羽郡大口町)、黒田城(現在の羽栗郡木曾川町)なども麾下にあり、それぞれ家臣の中島豊後守と和田新介が守っていた。信長は重臣の丹羽長秀に命じてこの両者を調略して降参させ、犬山城を孤立させ、徹底的に包囲した。
ところがである。『信長公記』ではなぜか、犬山城攻略に関しての記事が包囲の時点で終了している。
「(犬山城の)四方鹿垣二重、三重丈夫に結いまわし、犬山取り籠め」
この時点で終了しているのである。そのため、以後は別の史料を頼りにする。実は年代不明だが、9月9日付で信長が上杉輝虎の重臣・直江景綱に宛てた書状が存在する。
「よって先月濃州に相働き、井口(稲葉山城)近所に取出の城を所々に申し付け候。しからば犬山落居せしめ候。その刻金山落居に候」
つまり、稲葉山城を攻めるためにその近辺に砦を築いた。これにより犬山城と金山城が落城した、と書かれているのである。
史料や信長の当時の動きなどから、恐らくこの書状は永禄7年(1564年)に出されたものと推定され、それから察するに犬山城は恐らく永禄7年8月に落城したものと推定される。信清は犬山城から逃亡して甲斐国の武田信玄の下に身を寄せた。信清の妻は信長の姉・犬山殿であり、彼女は信長に庇護されている。