潘璋
潘 璋(はん しょう、? - 234年[1])は、中国の後漢末期から三国時代にかけての呉の武将。字は文珪(ぶんけい)[1][2]。子は潘平。
生涯[編集]
兗州東郡発干県の出身[1]。孫権が陽羨県長だった時に面会して部下となる[1]。潘璋の家は貧しく、酒を出世払いとツケで飲んでいたが、孫権にそんなところを逆に愛されたという[1]。山越の不服従民族の討伐に戦功を挙げて別部司馬に任命される[1]。その後、中央市場の取締役に任命されて盗難や傷害事件を厳しく取り締まって皆無にしたため、西安県の県長に昇進した[1]。
215年、曹操との合肥の戦いで逃走する味方の兵士2名を斬り、他の兵士らを奮い立たせて勇猛な働きを見せた[1]。この戦功により偏将軍に昇進する[1]。
219年の関羽との攻防戦では部下の馬忠が関羽と関平、趙累らを捕縛する戦功を挙げたので、振威将軍・固陵郡太守に昇進する[1]。222年の夷陵の戦いでは蜀軍の馮習らを討ち取る戦功を挙げたので、平北将軍・襄陽郡太守に任命された[1]。229年に孫権が皇帝に即位すると右将軍に昇進した[1]。234年に死去。
『三国志演義』では孫策の死後に孫権に仕えた武将の一人として登場する。劉表との戦いで黄祖配下の蘇飛を生け捕るなど活躍する。赤壁の戦い、荊州の戦いにも参加するなど、史実通りに活躍している。しかし孫夫人に一喝されて劉備を取り逃がしたりなど、いささか凡庸な部分も描かれている。荊州攻略戦では史実通り第77回で関羽・関平父子を生け捕り、関羽の愛刀である青龍偃月刀と愛馬である赤兎馬を手に入れるが、赤兎馬は餌を食べなくなり死んでしまう。第83回の夷陵の戦いにも参加しているが、ここで関羽の遺児・関興に夜に休憩をとろうとした山荘で偶然にも出くわし、関羽の亡霊の助けもあって関興に討ち取られて首と偃月刀を奪われる末路を送った[1]。史実より12年早く死んでいる事になる。
人物像[編集]
性格は粗暴で奢侈を好んだ。役人や兵士で裕福な者がいると殺害して財貨を奪ったりするなど不法行為も目立ったが、孫権は潘璋の戦功が常に大きかったので罪に問わなかったという[1]。また用兵に優れているだけでなく、意外にも経済にも明るかったという[2]。
息子の潘平も父に似て無頼の徒であったが、後年に孫権に追放されている[2]。