趙累
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趙 累(ちょう るい、生没年不詳)は、中国の後漢末期の武将。劉備の家臣。
生涯[編集]
劉備の家臣で関羽の都督を務める[1]。219年に関羽が孫権の攻撃を受けて麦城に立て籠もり、脱出を図った際に関羽・関平と共に馬忠に生け捕られた[1]。ただ、この後にどうなったかの記録は存在しないため処刑されたのか助命されたのかは不明である[1]。
『三国志演義』では第73回で初登場。地位は軍前都督で兵糧を担当する役目。関羽の曹仁攻めに同行するが、王甫からその忠誠と能力を見込まれて潘濬に替えて荊州を守らせるよう関羽に進言するが聞き入れられない。曹仁に敗れて孫権に背後をつかれた際、劉備への援軍を求めるべきという進言をする。麦城に立て籠もると上庸にいた劉封と孟達への援軍を求める策を提案。さらに麦城を脱出して蜀に逃げ帰る策を提案するが呂蒙に読まれており、朱然と潘璋の伏兵により乱戦の中で戦死している。