浅尾藩
浅尾藩(あさおはん)とは、江戸時代前期と幕末・明治時代初期に備中国に存在した藩である。江戸時代前期も幕末期も短期間に存在した藩であり、ほとんどは旗本として支配していた時期のほうが長い。藩主家は外様大名・譜代大名の蒔田氏で石高は1万石。藩庁は浅尾陣屋。現在の岡山県総社市浅尾に存在した。
概要[編集]
豊臣氏の家臣・蒔田広定は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後に徳川家康によって改易された。しかし、浅野幸長の執り成しによって罪を許され、慶長8年(1603年)に備中国賀陽郡・窪屋郡、河内国大県郡、山城国久世郡、摂津国豊島郡・八部郡において1万石を与えられ、備中浅尾に陣屋を構えて浅尾藩を立藩した。
寛永13年(1636年)に広定が死去すると、その遺児の定正は遺領のうち8000石余りを継承し、残り3000石を弟の長広に分与して三須蒔田氏を創設した。このため、浅尾氏は藩主としての地位を失って浅尾藩は廃藩となり、以後は旗本領となる。寛永18年(1641年)に定行が相続した際、今度は弟の定則に1300石を分与したので、6700石ほどになってしまう。天和2年(1682年)、上野国に700石を加増されて7400石余に上昇し、以後はこのまま幕末に至る。
幕末の文久3年(1863年)、広孝は江戸市中警備の功績で、1万石に高直しをされて、再度蒔田氏は大名に昇格して浅尾藩が再立藩した。なお、蒔田氏は外様大名であったが旗本としての期間が長かったことから江戸幕府より譜代大名に昇格を許された。ところが浅尾藩は幕末の動乱に巻き込まれ、立石孫一郎率いる長州藩の第2奇兵隊によって倉敷代官所もろとも浅尾陣屋も占領されてしまい、焼き討ちまでうけてしまう(倉敷浅尾騒動)。
なお、安政5年(1858年)には領内の浅口郡大谷村の百姓・川手文治郎が金神の啓示を受けたとして、安政6年(1859年)から神への取次と称して金光教を立教したりしている。
歴代藩主[編集]
- 蒔田家
江戸初期[編集]
1万石。外様。(1603年 - 1636年)
幕末[編集]
1万石。譜代。(1863年 - 1871年)