池田知正

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが池田知正の項目をおカタく解説しています。

池田 知正(いけだ ともまさ、弘治元年(1555年) - 慶長9年3月18日1604年4月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将摂津国豊島郡国人池田長正の長男。別名は勝重(かつしげ)、重成(しげなり)。通称久左衛門(きゅうざえもん)。一時期、荒木村重の配下となり荒木久左衛門と称されていた。『信長公記』では荒木久左衛門、『陰徳太平記』では池田久左衛門と記述されている。

生涯[編集]

官途は民部丞。受領名は備後守。摂津国池田城主。

当初は兄の池田勝正と共に織田信長に仕え、永禄11年(1568年)の六条の戦いにおいて三好氏の軍勢を撃退。元亀元年(1570年)7月に兄の勝正が出奔したため、池田城主に就任。元亀2年(1571年)に信長の命令で、荒木村重与力となる。しかし同時期に室町幕府征夷大将軍足利義昭が信長と対立すると、知正は三好三人衆と結んで幕臣の和田惟政を茨木郡山で殺害して信長から離反した。しかしやがて信長に降伏。

天正6年(1578年)に荒木村重が信長に対して反乱を起こすと、知正はそれに同調したため、伊丹城開城後に知正の家族は尼崎七松において処刑されている。信長没後は豊臣秀吉に仕え、摂津国豊島郡において2700石の知行を与えられた。以後、小牧・長久手の戦い九州征伐に従軍し、官位は従五位下備後守に叙任されている。

秀吉没後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては東軍に属し、戦後は5000石に加増された。

慶長9年(あるいは慶長8年)(1604年1603年)に死去。家督は子とも弟ともされる池田重信が継承した。