池田知正
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池田 知正(いけだ ともまさ、弘治元年(1555年) - 慶長9年3月18日(1604年4月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。摂津国豊島郡の国人。池田長正の長男。別名は勝重(かつしげ)、重成(しげなり)。通称は久左衛門(きゅうざえもん)。一時期、荒木村重の配下となり荒木久左衛門と称されていた。『信長公記』では荒木久左衛門、『陰徳太平記』では池田久左衛門と記述されている。
生涯[編集]
当初は兄の池田勝正と共に織田信長に仕え、永禄11年(1568年)の六条の戦いにおいて三好氏の軍勢を撃退。元亀元年(1570年)7月に兄の勝正が出奔したため、池田城主に就任。元亀2年(1571年)に信長の命令で、荒木村重の与力となる。しかし同時期に室町幕府征夷大将軍の足利義昭が信長と対立すると、知正は三好三人衆と結んで幕臣の和田惟政を茨木郡山で殺害して信長から離反した。しかしやがて信長に降伏。
天正6年(1578年)に荒木村重が信長に対して反乱を起こすと、知正はそれに同調したため、伊丹城開城後に知正の家族は尼崎七松において処刑されている。信長没後は豊臣秀吉に仕え、摂津国豊島郡において2700石の知行を与えられた。以後、小牧・長久手の戦いや九州征伐に従軍し、官位は従五位下備後守に叙任されている。