武田信由
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武田 信由(たけだ のぶよし、? - 天正10年3月7日(1582年3月30日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の客将。通称は三郎。官途名は上総介。
略歴[編集]
若狭国の守護大名・武田信豊の子。兄弟に義統、信方、信景、義貞らがいる。
弟の義貞と共に父・信豊の寵愛を受け、これにより信豊と義統の関係が悪化し、弘治2年(1556年)に朝倉義景を巻き込んでの内乱に発展して信豊は敗北し、義統が勝利したので信由と義貞は武田晴信を頼って甲斐国に亡命することになったという。甲斐武田家では「国持ちの御牢人」という身分で「御客人」という待遇で迎えている。
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、弟の義貞と共に上洛して義昭に仕えた。ただ、近江国の浅井久政と交渉したり、元亀2年(1571年)に越前国敦賀で久政と面談して、元亀3年(1572年)8月には書状を受け取ったりするなど、義昭の使者として働きながら信長包囲網の敵方と接触したりと明らかに信長の敵対勢力と連絡を取り合う姿勢を見せている。
義昭が信長によって追放された後は、再び甲斐国に下向して武田勝頼に仕える。勝頼が信長の前に劣勢になると、安芸国の毛利輝元との同盟を模索し、その交渉役として両者の間を往来した。
『信長公記』によると、天正10年(1582年)に信長による武田征伐が行われた際、信長の嫡子・織田信忠によって殺害されたという。