武田義貞
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武田 義貞(たけだ ぎてい、? - 天正10年(1582年)3月?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の客将。室町幕府の幕臣。
略歴[編集]
若狭国の守護大名・武田信豊の子。兄弟に義統、信方、信景、信由らがいる。受領名は甲斐守。これまでは「義貞」の名乗りから穴山信風に否定されてきたが、別人であることが明らかになっている。
兄の信由と共に父・信豊の寵愛を受け、これにより信豊と義統の関係が悪化し、弘治2年(1556年)に朝倉義景を巻き込んでの内乱に発展して信豊は敗北し、義統が勝利したので信由と義貞は武田晴信を頼って甲斐国に亡命することになったという。甲斐武田家では「国持ちの御牢人」という身分で「御客人」という待遇で迎えられている。
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、兄の信由と共に上洛して義昭に仕えた。『尋憲記』によると、元亀元年(1570年)12月に義昭が志賀の陣において織田信長と朝倉義景・浅井長政との間の和睦を斡旋した際には、義昭の使者として関白・二条晴良の下を訪れている。
義昭が信長に追放された後、信長に対抗するために天正4年(1576年)に武田勝頼、上杉謙信、北条氏政との間で三和を成立させようとした際には、使者を務めている。なお、同時期くらいに「武田甲斐守入道義貞」と署判していることから、出家していたことがわかっている。
『信長公記』によると、天正10年(1582年)に信長による武田征伐が行われた際、信長の嫡子・織田信忠によって兄の信由は殺害されている。義貞の行方は不明だが、この際に殺されたとも逃げ延びたとも言われている。