板垣 信安(いたがき のぶやす、生没年不詳)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。官途は左京亮[1]。
最初於曾氏を称していたが、永禄年間初期に甲斐武田氏の譜代家老衆の板垣氏の名跡を継承した[1]。永禄6年(1563年)12月、上野和田城が上杉輝虎の攻撃を受けた場合、援軍として入城するように武田信玄から命令を受けた[1]。天正4年(1576年)2月、真田昌幸と連署で寺領安堵の判物を出している[1]。この頃は上野箕輪城に在城していたが、その後の行方は不明である[1]。