松根城

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松根城(まつねじょう)とは、現在の石川県金沢市松根町にかつて存在した日本である。

概要[編集]

この城は金沢市の東端、標高309メートルの松根山の頂上にあった山城である。山頂への途中、幅およそ2メートル、深さは1.5メートルから1.8メートル余りの空濠があり、山腹を取り巻いて富山県側に続いている。

この城は南北朝時代正平24年/応安2年(1369年)、能登国の土豪である得江秀員と、越中国守護桃井直常が戦った際に記録にあるため、少なくとも南北朝時代には存在していたようである。ただ、詳細な築城年代に関しては不明である。

応仁の乱が起こった頃の文明年間(1469年から1487年)、加賀一向一揆の首領であった洲崎慶覚居城にしていたといわれる。天正4年(1576年)に越後国上杉謙信による越中国侵攻が開始されると、謙信により富山城は落城し、さらに松根城にも押し寄せたので、当時の城主である洲崎兵庫は謙信を迎撃するために加賀・越中国境である倶利伽羅峠まで赴いたが、あっさりと敗退している。しかし、謙信は能登の七尾城を攻めるために転進したため、兵庫は森本城主の亀田隼人月浦城主の林新六郎らと結託して上杉軍を背後から強襲する。上杉軍は折からの悪天候や地理不案内もあり、この奇襲を受けて一時的な敗北をしている。

謙信や織田信長の死後、豊臣秀吉の時代になると、越中は佐々成政の所領となっており、天正13年(1585年)に加賀の前田利家が家臣の村井長頼らに越中の蓮沼城を攻撃させた際、成政は家臣の杉山隆重は松根城から出撃して迎撃するべく進軍している。松根城はこのように、加賀と越中の国境近くに位置する軍事拠点として重要視されたが、同年の豊臣秀吉の越中征伐で成政が降伏し、越中の大半が前田利家の所領となるに及んで、その役目は終えたとして廃城となった。

現在、松根山頂は広々とした平坦地で、中央に本丸跡があり、その真ん中に「松根城址」と彫られた石柱が建立されている。向かって左側が2の丸で、右側が3の丸と見られている。城跡頂上からは東方の眼下に砺波平野が一望に収められ、はるかに立山連峰の遠望を楽しむことができる。また、北西には朝日山、その向こうに河北潟の残存湖と日本海の雄大な景観が展開している。

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