森藩
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森藩(もりはん)は、江戸時代から明治時代初期まで豊後国日田郡・玖珠郡・速見郡に存在した藩である。藩庁は森陣屋。藩主家は外様大名の来島氏(久留島氏)。現在の大分県玖珠郡玖珠町に存在した。
概要[編集]
来島家はもともと、伊予国の守護大名であった河野氏の一族で、伊予水軍を率いる水軍の将であった。そのため、河野家滅亡後は豊臣政権下で水軍を率いる武将として取り立てられ、朝鮮出兵にも参加している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで来島長親は西軍に属したため、戦後に徳川家康によって改易された。しかし、来島家の縁戚であった福島正則の口添えがあり、大名として復帰を許されて長親には家康の偏諱を与えられて康親と改名することになった。ただし、水軍としての力は奪われて、内陸部の森に移されることを余儀なくされたので、事実上は左遷に近かった。
康親は慶長6年(1601年)に日田郡・玖珠郡・速見郡などに1万4000石で入った。第2代藩主・来島通春の時に来島から久留島と改めた。また、第3代藩主の久留島通清の時に弟らに1000石と500石をそれぞれ分与したため、森藩は1万2500石となった。この石高は豊後国内の藩では最も最小であった。
小藩であったが、意外にも筑後川上流域の玖珠郡内は豊かで、速見郡内の鶴見では明礬が生産されて安政年間には専売品となり、藩の財政を支えていた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争によって江戸幕府が完全に無力化すると、森藩の隣にあった天領の日田陣屋が無人となった。すると森藩は尊王を表明して天領日田を支配下に置き、さらに譜代大名の府内藩を説得するなど、明治政府に対して大きく貢献している。
歴代藩主[編集]
- 来島(久留島)家
外様 1万4000石→1万2500石