中原一

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中原 一(なかはら はじめ、1940年 - 1977年2月12日[1])は、新左翼活動家。本名・笠原正義[2]革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の最高指導者[3]。革労協書記局長、社青同解放派筆頭総務委員[4]

略歴[編集]

広島県江田島生まれ。神奈川県立湘南高等学校卒業。1959年東京大学入学[1]。在学中の1961年日本社会主義青年同盟(文京支部東大本郷班)加盟[1][† 1]。1966年社青同学生班協議会解放派議長に就任[5][1]。1968年社青同東京地本書記次長に就任[1]。1969年社青同東京地本書記長に就任[5][1]。東大文学部卒業後[2]、1969年9月の革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の結成に参加。以降、革労協書記局員として社青同解放派を指導した[5][1]。1970年6月日本社会党を除名[6]

1977年2月11日、茨城県取手駅付近で、革マル派に乗っている車を挟み撃ちにされ、鉄パイプで頭などを滅多打ちにされ、翌12日朝、頭蓋骨骨折で死亡した[4]。享年36歳[1]。事件後、革マル派は事実上犯行を認めるコメントを発表した。革労協は機関紙で革マル派との「『戦争』関係に突入した」とし、4月15日に埼玉県浦和市内で政治組織局員の藤原隆義ら革マル派メンバー4人を焼き殺した[4][7]。革労協は中原が殺害されたことを契機として、狭間嘉明学対部長を中心とする内ゲバ・軍事路線志向の学生出身活動家グループ(狭間派)と、滝口弘人議長、加藤弘美労対部長を中心とする大衆運動・労働運動重視の労働者グループ(労対派)が対立し、1981年6月に分裂した[8][9]

著書[編集]

  • 『共産主義「復活」の諸問題――階級闘争の現段階と革命の展望』(高見出版、1970年)
  • 『党・ソヴィエト・武装蜂起』(高見出版、1972年)
  • 『中原一著作集(全3巻)』(中原一著作集編集委員会編集、中原一著作集編集委員会、1978-81年)

分担執筆[編集]

  • 現代史の会編『現代革命の条件』(亜紀書房、1969年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 『戦後革命運動事典』では「社青同学生班協議会東大本郷班」[5]

出典[編集]

  1. a b c d e f g h 小嵐九八郎『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』講談社文庫、2007年、270頁
  2. a b 『蜂起には至らず』266頁
  3. 山崎一夫「革命的労働者協会」、戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、53頁
  4. a b c 高沢皓司高木正幸蔵田計成『新左翼二十年史――叛乱の軌跡』新泉社、1981年、218-219頁
  5. a b c d 板橋真澄「中原一」『戦後革命運動事典』201頁
  6. 樋口圭之介『六〇年代社青同(解放派)私史』社会評論社、2012年、216頁
  7. 警備研究会『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集〔四訂〕』立花書房、2012年、133頁
  8. 『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集〔四訂〕』135頁
  9. 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、138頁

外部リンク[編集]