日本歴史学

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日本歴史学(日本歴史学)

概観  歴史学とその周辺学問の関係を中心に、方法を主に扱います。考古学、年輪年代学、言語学、史料批判、民俗学、民族学、地名学などです。歴史学の方法としてまとまったサイトは無く、読者の便に供しています。いろいろな立場を過不足なく、反対の立場も歴史学会の定説に従い平等に扱います。ただし、主流となる考えもあれば、定説の無い立場もあります。

論争となるテーマを中心に、その解明に有効な方法を並べています。時代は、歴史学の周辺の学問が役割を果たしえる、弥生時代から、古代(継体まで)です。あくまで概要で、全体を俯瞰するものが見当たらず、いろいろな説を並べています。最後に、基本的な参照を並べております。

歴史学は、広い分野に関わる。 特に古代史は、考古学は勿論、炭素14の歴史年代法、年輪年代法で年代が一新された。 また、民族学の基本概念、双系、単系の概念が、日本の社会構造に対する認識を変える役割をしている。さらに、縦社会と言う概念が中根千枝により、提起されている。より具体的には、東北関東の同族社会、関西の共和型社会論もある。 さらに、柳田國男などの民俗学の流れや神話学の影響がある。 また、マルクス主義は特に、戦争前、そして最近までの歴史学で大きな役割を果たした。 さらに、文明論との関連もある。梅棹忠雄の文明の生態史観があり、網野善彦(本来歴史学者だが、民俗学に近い)などもいる。

明治以前の日本の歴史家から見た、歴史学の性格 3類型[編集]

歴史学の基礎を築いた新井白石、文献批判(史料批判)の創始者、山形蟠桃、古代日本語の音韻(音韻論)を解明した、僧、契沖などがいる、 現在の歴史学の方法の原型が、江戸時代にすでに出来上がっている。

歴史学は、学問(科学)、思想、物語の3側面があると多くの歴史学者は述べる。高名な歴史学者は文筆家として筆が立つと言われている。明治以前、このことはつぎのように明瞭に表れている」。

歴史書の執筆[編集]

  • 舎人親王(とねりしんのう、天武天皇4年(676年) - 天平7年(735年)、日本書紀の選者)  多くの執筆者の共同製作が明らかになっている。政権の正当化の視点がぬぐえない。
  • 慈円(じえん 1155年 - 1225年、愚管抄の著者)  道理という概念で歴史を見た。
  • 北畠親房(きたばたけ ちかふさ 1293年 - 1354年、神皇正統記の著者)南北朝時代の南朝の貴族、天皇の正当性を正面切って主張した最初。後醍醐天皇には、肯定否定、両面の評価をしている。
  • 頼山陽(らい さんよう 1781年? - 1832年、日本外史の著者)、日本主義、天皇主義、維新の志士など、多大な影響を与えた。

学問としての形を作ったもの[編集]

  • 新井白石(あらい はくせき 1657年 - 1725年、読史余論・古史通などの著者)
  • 山片蟠桃(やまがた ばんとう、1748年 - 1821年、江戸時代の学者、古事記などの神話を作り話として否定、津田の文献批判学、史料批判とほぼ同じ内容とされる)[1]
  • 契沖(けいちゅう)僧侶、記紀の研究から、古代日本語の母音に、甲乙2種類の区別がある事を見出した。例えば、邪馬台国のヤマトのトは、奈良の大和であり、九州の山門(ヤマト)ではない事がかなりの確率で言える。倭奴国王(イトと発音できる)のイトのトは、伊都国のイトは違う。このため、最初、倭奴国はイト(伊都)国と解釈されたが、今では両者は違うとされる[2]。他の母音にも区分があった、 上代日本語を参照。
契沖の成果は、本居宣長・石塚龍麿に受け継がれ、発展し現在にまで受け継がれている。

思想的(史観)な側面を併せ持つ[編集]

  • 賀茂真淵(かも の まぶち)古道説の確立者、本居宣長の師 史学者と思想家の両面を持つ。
  • 本居宣長(もとおりのりなが) 契沖と賀茂真淵を師とした。古事記の研究で知られ、学問的にも、思想的にも、一般人を含め世の中に多大な影響を与えた。契沖の言語分析をさらに進めてもいる。

社会と精神の構造の 実態と手法[編集]

精神の構造には、民族学、民俗学、神話学がある。

社会の構造は、地球規模の地政学的な位置が影響することが、文明論で示されている。位置とは、ユーラシア大陸の端、海洋、そして、生態学的な環境を言う。具体的には、生態学・民族学・文明(世界史)・地政学(アジア史)である。

精神の構造と民族学・民俗学・神話学 [編集]

歴史学を取り囲む、民族学民俗学神話学は、しばしば歴史学者により参照され、歴史学の本に、民族学、民俗学、神話学学者が寄稿し、また、歴史学者自身がこれら学問が歴史学の解明に重要なことを書き留め参照ている。

民族学[編集]

  • 中根千枝(なかねちえ)縦社会の概念を出した。誤解されることが多いが、縦関係と言う意味ではなく、蛸壺の様に集団で群れて、横のつながりに乏しい事を言う。今も、西欧と日本では、この差が歴然としている事を指摘している。
  • 浜口恵俊(はまぐちえしゅん)シューの弟子。 シューは、クラン・カスト・クラブを漢族・インドアーリア・西欧の社会の型とした。日本は家元と考えている。濱口は、日本は場(参加する場)に従い、西欧は論理に従うと考えた。この考えは、山本七平空気の研究に通じるところがある。
  • 日本は、双系制社会である。 歴史学では常識。

日本は漢族・韓族の父系制や、南方の東南アジアの母系制と異なり、西欧と同じ双系制であるとされる。父母の両方の祖先を同等に扱う。実際、母方の叔父と父方の叔父の名称の区別が無い[3]。その他多くの証拠がある。漢族の父系制が、奈良時代を中心に取り入れられたが、実際の相続など、双系制の基本が守られていた。この双系制と父系性の違いは、社会の骨格の違いと見なしてよい。レビ=ストロース親族の基本構造

源氏や平家が地方に勢力を持ち根をはったのは、国司などの力があるにしても、不自然である。その根拠は、国司や介などの地方官の力以外に次が指摘されている。天皇の子孫が、地方の豪族の娘と結婚し、その豪族の勢力を手に入れた。これは、娘と結婚した男が、その地の支配権を譲り受けられた[4]からだと言われている。
中世でも、一族が男系だけでなく、女系(姻族)をも含む場合が多々ある。天皇に女性がついたり、日本書紀に女性の首長(酋長)が見られるなど、双系制の精神、慣行、制度の例はいとまがない。

後で触れる、有賀喜左衛門は社会学者だが、人類学(民族学)的な学者でもある。

双系制と神話、精神の関連については、例えば、良く知られた例では、精神分析家の、河合隼雄が唱え、民話や神話の分析をした。河合の唱えた日本社会の中空構造論は、次の神話学の基本命題ともいえる。

民俗学・神話学[編集]

民俗学は、伝承などの物語や文化を使い一般的な民衆の精神を解明する。神話は、さらに古代の伝承で、神々に結びついた形式が多い。神話分析は、大林らの系譜、分布分析、そしてレビ=ストロースの構造分析、その他、社会制度や精神との関連など、多様な分析がされている。

  • 柳田國男(やなぎた くにお)民俗学の創始者、柳田学派の民俗学の成果は、古代以前の日本の姿の解明に使われている。網野もこの系譜に属する。
  • 大林太良(おおばやし たりょう、1929年 - 2001年)日本の記紀の神話は、南方系と北方系の混合である。日本神話解明の権威。
  • 河合隼雄(かわい はやお、1928年 - 2007年)ユング派心理学者、神話分析から導いた中空構造論は、日本の精神構造の解明として名高い。
  • 吉田敦彦(よしだ あつひこ、1934年 - )大林太良と並ぶ、日本神話の研究者、大林の2系統説、河合の中空構造論を支持した。神話はユーラシア大陸一体で伝わり、日本神話はヨーロッパ神話と類似したものも含む。
  • 折口信夫(おりくち しのぶ)柳田の高弟、出会いは20代後半。国文学古典芸能、民俗学を研究し、神話、古代の精神、制度など、歴史学を含む巨大な業績を残した。

神道、古代支配を支えた行事で奉納された古典舞踏は、日本書紀の記述の根本にあるその源泉か、記紀を反映した物かは意見が分かれるが、この神話学的な意味、歴史上に位置も解明されている。

社会の構造と位置(生態学・文明(ユーラシア・海洋)・地政学・人類学) [編集]

歴史学を取り囲む、民族学、民俗学、神話学以外にも、さらに周辺の生態学気候帯も、歴史学、特に古代の解明には必要とされる。今と社会構造、精神構造が全く違うため、それらを参照することで、古代の理解が深まると言う理由である。環境、生態は、社会、精神に影響し、歴史を制約する要因になると言う理由である。

照葉樹林文化の一部としての日本[編集]

日本は、チベット、長江、山東半島(山東半島南部)につらなる照葉樹林文化の中に含まれ、基本的に似た生活体系を持つ。華北、モンゴル、朝鮮の北方文化とは異なる。

この一帯で稲の栽培が起こったと多くの照葉樹林文化の研究者は想定した。これは事実だが、彼らの想定した地域では無く、長江の流域で稲作が始まったことが証明されている。初期の照葉樹林文化論とは異なった形で稲作文明である長江文明が起こった。この稲作を伴う照葉樹林文化が日本の文化の根幹となっている。

朝鮮半島の南部の海岸沿いも照葉樹林帯に含まれる。先の、倭人が半島の南部にいたと言う説にも、間接的に関係がある。朝鮮半島南部の、しかも南部の海岸沿いの狭い地域が照葉樹林帯奴含まれるのだから。

今西錦司は、照葉樹林は、食物の乏しい生態系で、この文化論には反対している。実際、縄文文化の中心は東北地方で、照葉樹林帯から外れる。縄文文化は東北を中心に、ナラ林の地帯[5]でのクリ栽培などで生活体系が出来上がっていた。人口密度は、西日本の10倍以上で、東日本こそが縄文の中心だった。クリの栽培は、DNAが純化されていた事で証明されている。[6]

朝鮮半島南部  民族学・言語

朝鮮半島南部に、日本語と同系列の言語を話す倭人がいたという説が、最近、海外を含め起こっている。この地域(朝鮮半島南部の海岸沿い)は、照葉樹林帯に属している。また、海洋を囲む朝鮮半島南部、北九州、山陰を中心にした海洋世界の一部でもある。弥生の前、縄文時代、漁労民の交流があった事が、大型の魚を取る銛が共通してみられることから証明されている。

この説とは別に、古くは、新羅記に盛んに出て来る倭の新羅への侵入が、日本の九州からでは遠すぎて、難しく、朝鮮半島南部に倭人がいたという説に繋がる。この説を唱えた井上秀雄は、倭人=日本人と言う事自体を否定し、倭を蕃夷、異族の総称とした。長江流域の倭もこれである。井上の倭が日本人を指さないと言う見解には批判があり、一般的でない。

長江、照葉樹林帯文化圏

倭人は、元々、長江流域にいて、そこから日本列島に海を渡って来たという説がある。このため、史書に倭人と言う言葉が出て来ることがあっても、必ずしも日本列島の倭人を言うわけでは無く、長江流域の倭人を指すと言う説である。しかし、裏付けが無い。[7]

極東での地政学的な位置と大陸との関係[編集]

地政学的な観点での議論も多い。代表的な説は、次の二人である。

  • 岡田英弘(おかだ ひでひろ 1931年 - 、中国史、満洲史、モンゴル史、日本古代史)東洋史と重複
商人とは、大陸の夏に源泉を持ち、ネットワークを作り、日本にも来日し、ネットワークで日本を支配した。卑弥呼の時代はこのようなものであった。商とは、殷の前の 夏 (三代)の国の人で、長江の文明と岡田は考えた。しかし最近では夏の地域の中心は黄河流域で違うと否定されている。
岡田の夏、商人は、否定されたが、稲作を開始した長江文明は、華北の文明より起源が、遥かに古く稲作は少なくとも1万数千年前始まり、華北文明に大きな影響を与えたとされる。長江文明を参照。長江は、後で出て来る照葉樹林文化の一帯でもある。
騎馬民族が、日本に侵入し王権を立てたとする。崇神王朝末、応神王朝の草創である。考古学資料を元にしているが、古墳の連続性を含め、征服の証拠となるものはほとんどなく、現在は支持されていない。考古学資料とは、騎馬の埴輪や、横穴式が付け加えられた竪穴式石室の古墳の出現を言う。

以上の説は、歴史学から見た極東、東アジアの地政学だが、文明論としての地政学的な議論がより大規模に、地球規模で繰り広げられている。

地球規模での社会構造と生態学・地政学・文明の構造[編集]

生態学的な構造が社会の骨格になる事を梅棹の文明論は示した。また、民族学的な手法を使い、有賀は社会の骨格を示し、さらに、文明論の視点からの村上らの歴史記述もある。

  ユーラシア大陸の構造と日本とヨーロッパ (生態史観、岩波講座日本史に歴史に関する方法としての引用がある。)

梅棹は、ユーラシア大陸の中心の乾燥地帯での遊牧民が周辺の農耕地帯に侵入し、大陸の中心部の文明は絶えず瓦解し、高度な社会に遷移できないとする。ユーラシアの両端の日本とヨーロッパは破壊を免れ、平行進化し、封建制を経て、高度な社会にいたり、ユーラシアの文明を追い抜いていった。生態学的な遷移理論を元にしている。ヨーロッパと日本のように、文化要素が異なっても、同じ遷移過程を経て、同じ高度文明に至るとする。そして、制度群・装置群を発達させた文明は、環境の制約を離れ、情報文明に至る。[8]

  海洋と日本 (海洋史観/ブローデル、ブローデルは世界史に名を遺す巨人で、川勝の主たる方法となる)

梅棹を理論が無いと批判し、歴史主義を唱えた[9]。遅れた文明が、先進文明を目指し、改良を重ね追い抜いた。そして、海洋交易が文明を推進し、綿や金属貨幣と言う産業が、日本やヨーロッパで起こり、江戸時代は鎖国だが、にすでに、ユーラシアの両端から、これら産業で、アジアを支配していた。

  同族

  • 有賀喜左衛門(ありがきざえもん)  東北の社会を中心に同族社会が日本の社会の骨格となる事を示した。次の村上らの分析は、有賀の同族団と関西の共和型と総合して、歴史経緯を示したものである。

  社会構造としてのイエ史観

村上は、梅棹の文明の生態史観の生態学的遷移理論を批判し、文明の多系史観を主張した。日本社会は、ウジ社会の時代、ロシアなどの王権(天皇)と教権(仏教)が合体する社会になる可能性が多分にあった。しかし、ロシア式の社会にはならず、同族連合のイエ社会と、村落共同体の共和的な惣村社会の分岐点を経て、イエ社会となり、現在はイエ社会の最終分解状態にあるとする。
多系(分岐)史観  村上らは、文明はある時点で分岐して、別の文明に分れると考えた。日本の文明は、関西と関東のふたつの文明からなり、関西の文明は、西欧以上に契約社会、同等社会であった。一方、関東は豪族支配の形式で、イエ社会であった。二つの競合を経て、関東型のイエ社会が、主流となった。
イエとは、有賀の同族と言う側面と、関西の貴族が中国から家の制度を取り入れた両方の側面がある。相互に影響しあっている。

他にも多くの史観があるが、省略する。  

歴史の方法、及び、周辺分野[編集]

年代の決定[編集]

放射性炭素年代測定年輪年代学で従来の古代の年代は、古い方に400年シフトした。

放射性炭素年代測定[編集]

国立歴史民俗博物館春成秀爾今村峯雄藤尾慎一郎 [10] ただし、測定について、十分な注意(測定コントロール)がなされたか、異論が出ている。[11]

  • 縄文時代早期、9500年前で縄文土器が世界最古の可能性が判明する。芹沢長介と3000年前とする山内清男とが論争した。
  • 大平山元I遺跡(縄文草創期)の土器が1万6500年前との測定結果がでる。国立歴史民俗博物館
  • 九州北部の弥生時代早期が前949年~915年、前期が前810年頃、中期が前350年頃、始まった。)

年輪年代学[編集]

先駆者

  • 西岡秀夫、法隆寺の心柱から建設年代を決定しようとしたが、失敗する。
  • 山澤金五郎( 高山測候所長、檜年輪調査成績 )[12]

年輪年代学は、木材の年輪から絶対年代を割り出すことができる。山澤金五郎は先駆者として、データを残した。奈良および東京国立文化財研究所において、坪井清足、佐原真、がドイツに視察に行き、年輪年代学をやろうということになる。これに田中琢が加わり計画を推進する。佐原や田中に指導されながら、若手の植物に詳しい光谷拓実が実際の仕事を担当した。結局、アメリカでは15年、ドイツでは30年のデータですむが、日本では150年の年輪データで年代が判別できることが判明する。このように、日本では判別が難しく、当時、年輪年代学は日本では難しいと言われていた。また、当時奈良研にいた伊藤延男もドイツに行き、三浦定俊などがこれに関わった。現在も上記研究所で研究が行われている。[13][14]。放射年代測定とともに、絶対年代を測定でき、弥生時代などの年代に革命を起こしつつある。すでに、多くの測定がなされ、ほぼ確立している。

  • 坪井清足、(つぼい きよたり、1921年 - 考古学者。奈良国立文化財研究所、元興寺文化財研究所所長、文化功労者)
  • 佐原真(さはら まこと、1932年 - 2002年、弥生の歴史編年表の作成、年輪年代学の指導、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター長、国立歴史民俗博物館館長)
  • 田中琢(たなか みがく、1933年- ,平城宮跡の発掘、奈良国立文化財研究所長 )
  • 伊藤延男(いとう のぶお 1925-  文化功労者、年輪年代法開拓者 )
  • 三浦定俊( 年輪年代法開拓者 )
  • 光谷拓実(みつたに たくみ、1947- 年輪年代法を日本で始めて確立 )

年輪年代学の歴史は、次の文献に触れられています。[15]

史料批判学・古文書学・上代日本語 ・地名[編集]

テキスト分析と上代日本語[編集]

契沖は、記紀の研究から、古代日本語(上代日本語)の母音に、甲乙2種類の区別がある事を見出した。この契沖の成果は、本居宣長・石塚龍麿に受け継がれ大きな進展を見せた。

この分野は、歴史文献の言語、用語、書体などの分析を通して、日本書紀の著者が何人いて、どこをどういう風に書いたかまで、解る様になっている。その結果、筆者の背景はもちろん、書かれた年代や、その基になった基礎資料の推定(帝紀など)も見られる。

文献批判学が、事実との相違や、確実性を調べるのに対し、テキストその物の構造を探るうえで、単なる言語分析から成長して、より厳密な広い分野まで捉えられる学問に成長している。(もちろん「帝紀」「旧辞」は古くから問題にされている。)

史料批判(特に神話)[編集]

史料批判は、今も史料読解の基本で、史料批判で確証されない史料は、誤りを含み、基礎史料として扱えない。しかし、歴史時代と異なり、神話では、誤りが多いように見えて、発掘で多くの遺跡が発見され、神話は大筋では事実であることが判明した場合が多い。安本美典によると、欧米の最近の神話の文献学は、仮設を立て、仮説が神話をどの程度説明できるかで、事実を確定する傾向がある。しかし、仮説検証の理論は、日本の学会の大勢にはなっていない。(岩波の歴史全集で、一度、安本の方法が言及されたが、影響は法とんど無い。)

  • 山片蟠桃(江戸時代の学者、古事記などの神話を作り話として否定)[16]
  • 古文書学 黒板勝美(欧米の文献批判学の流れを道入し古文書学を大成 )
  • 史料批判学 津田左右吉(黒板勝美の古文書学などの史料批判学の流れをくむ。古事記などの徹底的な批判で、津田学と称される。)
  • 数理文献学 安本美典(史料批判学への欧米の最近の批判を紹介、神話の構成を分析し、確率論に基づき、事実としての神話の核を取り出す史料批判学が主流と述べる。 )
考古学と文献学 [編集]
  • 考古学では、年輪年代学などの助けを借りつつ、考古学の内部で完結した年代、社会・国家・生活を再現した後、歴史史料を参照する立場をとる。[17][18]

地名学と年代論[編集]

地名学

柳田國男鏡味完二鏡味明克楠原佑介など。 地名はほとんど変化しない。これを利用して神話の舞台の分析がなされた。 古代の地名の事典が完成されていて、この時点を利用して、神話の舞台に出てくる地名が、九州が多く、ついで中国地方であることが示されている。[19]

  • 吉田東伍、(よしだ とうご、1864年 - 1918年、歴史地理学の先鞭をつける、『大日本地名辞書』)
  • 藤岡謙二郎、(ふじおか けんじろう、1914年 - 1985年、歴史地理学の草分け、AD900年の郡名の6割が現在も残る。

邪馬台国への応用

  • 鏡味完二、九州と関西で地名の名づけ方、位置関係が似るとして、11組をあげた。
  • 黒板勝美、日本書紀、古事記の神々は『延喜式』人名帳から、九州北部の神社が多いとする。

年代論

世界中の王の在位年数をもとに、天皇の在位の時代を推定する方法。

実証史学と考古学[編集]

実証史学・マルクス主義 と ウェーバー史学・その他 [編集]

戦後、日本の歴史学は、井上光貞らの実証史学石母田正らのマルクス系の史学に大別された。今では、マルクス系は凋落したが、ここで扱う古代史についてのマルクス系の寄与は大きい。先の史料批判学は、この実証史学の一部であり、その基礎となっている。歴史学とは文献資料を扱うもので、考古学や民族学と異なると言う意見もある。

ウェーバー 

戦前から戦後、 大塚久雄などマルクスとウェーバーの二人を大学者として研究したものは多い。 ウェーバーの研究は、それ自体で大きな分野を形成していた。大塚らのウェーバー重視に対し、井上は実証史学で文献批判の立場にたつ。井上らも、ウェーバーに言及があるが、ウェーバーの理念型は方法としては取り入れていない。

特に、ウェーバーの方法論は、一部の学者の間で多大な影響を与えた。以下はウェーバーの方法論です。

  • 学問は、特定の立場に立つ事を明確にせねばならない。
  • その上で、モデル(理念型)を創り、歴史的因果を理念型を基に決める。
  • この背景に、人は物は理解できないが、人の精神や行動は理解できる。こう言う大前提がある。

この原理の元、理念型を創り、時代や当時の精神、社会構造を確定し(理念型)、歴史事象を理解し、

  • 因果帰属(何が原因で歴史が動いたかの確定)を行う。

これがウェーバーの歴史社会学の、方法論的骨格になっている。[20][21]

数量歴史学

有賀などの社会学以外に、経済学、政治学も周辺の学問だが、ここでは数量歴史学に留める。 フランスでは、ブローデルなどのアナール学派の中から、数量史や価格史・歴史人口学などの数量的な研究が起こっている。ただし、人口の研究は古くからある。この流れで、日本では速水融が歴史人口学を導入した。アメリカでは、計量経済学から数量歴史学が起こっている。 [22]

史料学と考古学における 関東系・関西系歴史学[編集]

学問の確立期から、初期、考古学が好きでこの分野に、素人で入り、考古学の大家になったものは多い。

(白鳥庫吉), 人類学 坪井正五郎⇛鳥居龍蔵、 縄文土器 松本彦七郎⇛山内清男 

先駆者・指導者

  • 白鳥庫吉(しらとり くらきち、1865年 - 1942年、東大卒、東洋史学者、文献の白鳥、実証の内藤と並び称され、邪馬台国九州説を唱える。)
  • 坪井正五郎(つぼい しょうごろう、1863年 - 1913年、東大卒、人類学の先駆者)
  • 鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう、1870年 - 1953年、小学校中退 東アジア人類学・考古学の開拓者、師-坪井正五郎)

縄文土器の型式と編年

  • 松本彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年 - 1975年 東大 学士院賞、層位学的な調査、時代の新旧関係、はじめて土器型式による縄文土器編年、山内清男の縄文時代編年研究に多大な影響)
  • 山内清男(やまのうち すがお、1902年 - 1970年、東大卒、縄文土器編年確立者、施文技法、人類遺伝学に興味 東北大考古学の祖、東大考古学再建)

その他の分野

  • 森本六爾(もりもと ろくじ、1903年 - 1936年、旧制中学卒、弥生時代が古墳時代に先行する独立した時代,原始農業の開始期、師-鳥居龍蔵)
  • 杉原荘介(すぎはら-そうすけ、1913-1983 明大卒、静岡県登呂遺跡、岩宿遺跡(旧石器)、師-森本六爾)
  • 芹沢長介(せりざわ ちょうすけ、1919年 - 2006年、明大卒、旧石器時代、縄文時代研究、旧石器時代の編年研究)

(内藤湖南),濱田耕作⇛梅原末治、末永雅雄、小林行雄⇛佐原真

  • 内藤湖南(ないとう こなん、1866年 - 1934年、伝習館卒、東洋史学者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者、実証主義、邪馬台国畿内説を主張し論争、中国に於ける時代区分論争))
  • 濱田耕作(はまだ こうさく、1881年 - 1938年、東大卒、京大考古学の祖、弟子(梅原末治、末永雅雄、小林行雄)、ヨーロッパ考古学の取り入れ)
  • 梅原末治(うめはら すえじ、1893年 - 1983年 旧制中学卒、日本、中国、北方ユーラシア,東南アジア、銅鐸,古墳,古鏡,中国青銅器,東洋考古学確立 師(内藤湖南,富岡謙蔵,浜田耕作)同僚との確執)
  • 末永雅雄(すえなが まさお、1897年6月23日 - 1991年 大学卒業せず 学士院賞、文化勲章、日本上代の甲冑、高松塚古墳など発掘 師-濱田耕作)
  • 小林行雄(こばやし ゆきお、1911年 - 1989年 神戸大卒、弥生式土器編年,鏡の研究、豪族の勢力,邪馬台国畿内 師-濱田耕作)
  • 佐原真(さはら まこと、1932年 - 2002年 大阪外大、京大院、弥生土器,銅鐸,石器、弥生文化,比較文化史、奈良国立文化財研究所 、師(山内清男、小林行雄))当時、考古学の最高権威の一人とされ大きな影響力を持った。

関東系は、縄文土器の解明に力を注ぎ、邪馬台国九州説を唱えた。関西系は、弥生土器の解明に力を注ぎ、邪馬台国関西説を唱えた。内藤と白鳥の邪馬台国説を弟子が受け入れた点が大きい。

戦後史学 井上光貞と石母田正 井上光貞は実証史学者、石母田正はマルクス歴史学者で戦後歴史学者を代表する人物の系列にある。

考古学の手法と成果 [編集]

考古学は、人を含む非常に広範囲の遺物にまたがり、遺物から昔の人の生活、精神、社会構造などの再現を目指す。ここでは、時代の変遷を示す指標、型式編年を主にする。

また、植物学、農学も新たな知見を加えている。

縄文晩期から弥生早期  考古学と植物学、遺伝学、農学  [編集]

弥生農業の状況

稲は、縄文時代のかなり古くから存在するが、陸稲系統とされる。これは水田農業の水稲とは異なる。ただ、この稲の系統と、水稲の交配が起こり、早稲が出来て、寒い地方にも急速に稲が波及したと言う意見が、農学者より提出されている。この学者の意見では、後世まで陸稲と水稲の両方が、水田で植えられていた。また、生産性は決して高くはなかった。

また、弥生時代前期、水田からの食物は、必要とされるものの半分である事が、分析から解っている。そのような中での、水田農業の普及がなされた。その普及は、炭素同位体の分析でも、100年北九州で展開された後、西日本一帯、尾張の西半分を限界として急速に広がるとされる。

農業伝来の3説

  • 縄文人が自発的に水田農耕を採り入れた  金関など、金関は最初、稲作は朝鮮半島からとしたが、後に、縄文人が自発的に水田稲作を導入したと言う説に変わった。
灌漑、農具を伴う北九州の菜畑の遺跡より、100年早く、水田跡や農具は見出されないが、もみ殻が西日本で多くみられるようになる。
これは水田灌漑、農具を伴わない、稲の栽培が開始されたことを物語る。
灌漑水田の開始時期には、土器の作成技法、形状は縄文時代と同じである。後に見られる朝鮮半島系の祭器もほとんどない。
  • 大陸の長江、山東半島からの移住 主に、植物学者、民俗学者
日本の稲の過半を占める種類は、朝鮮半島には無い。
山東半島には、日本への移民を伝える伝説がある。
  • 朝鮮半島南部からの移住  主に考古学者
農具は朝鮮半島系で特に、抉入柱状片刃石斧は朝鮮半島にしかない。他は大陸と同じ。
稲の朝鮮半島南下の時期と弥生の水田農耕開始時期が一致する。
片刃石斧だけでなく、稲作の祭りに伴う祭器など農耕儀礼も朝鮮半島型である。[23]

この3説である。柳田の南方説はこれに含まれない。柳田の主張する沖縄の水田稲作は遅く、支持者が少ない。

以上を大別すると次になる。

  • 長江、もしくは、縄文説(照葉樹林文化)
日本の稲の系統の過半が朝鮮半島にはない。
日本の文化は、長江、山東半島、日本と連なる照葉樹林文化であり、北方系の黄河、朝鮮半島の文化とは系統が異なる。
弥生初期の遺跡から出土する土器は、縄文系の製作法でつくられ、形も縄文系そのものであり、さらに、祭器用の朝鮮半島型の土器も出土しない。
稲の遺伝子型で、日本の稲の過半を占めるタイプは、朝鮮半島には無く、大陸にしか見当たらない。
  • 朝鮮半島由来(北方系文化)
稲作に伴う農耕儀礼は朝鮮半島系である、さらに、
重要な石器である抉入片刃石斧も朝鮮半島にしかない。
  • 意見の分かれる物
日本の菜畑、菜畑の灌漑水田が、半島南部の灌漑水田より100年早い。
朝鮮半島の南下の稲は、陸稲であり、水田農耕ではない。(畑作農業で水田農業ではない。)
朝鮮半島中部西海岸に、山東半島から水田稲作が直接伝わり、この時期は、日本の弥生初期(菜畑など)より100年早い。[24]
一方、朝鮮半島の中部西海岸に山東半島から水田(水稲)が伝わった時期(菜畑の100年前)と同じ時期、日本列島では、水田や農具を伴わないが、稲の痕跡が数カ所の地域で見つかっている。
  • 次のような時系列になる。矢印は100年

  朝鮮半島 山東半島 → 朝鮮半島中部東海岸、水田農耕 →           → 半島南部の海岸沿いに稲作が出現

  日本列島 場所不明 → 水田の伴わない稲、西日本   → 北九州菜畑水田農耕 → 北九州から西日本一帯への波及[25]

  • 混合を示すもの

文化や稲作技術などは、最終的には、混合形態を示している。

石器は、木で出来た農具を加工する重要な利器(鉄器に代わる役割)だが、朝鮮半島系の磨製石器と日本列島系の打製石器が各々半々を占める。
また、縄文系の刻目突帯文土器が弥生時代前半にも過半から2割存続する。
支石墓や、朝鮮半島系の稲作の祭りの土器は、北九州だけ、もしくは、西日本では次第に薄れて行く。

弥生中期、後期 骨の分析では、遺伝子型は、中期には、非縄文系が人口の9割になっている。[26]

ミトコンドリアDNAでは縄文系は1割、Y染色体では5割である。

弥生時代        九州・関東・関西の土器の編年、型式[編集]

土器弥生時代の歴史文化の象徴とされ、時代研究に欠かせない。その編年と型式で、時代が画され、政治的文化的な地域の構造までわかる。さらに、日常使われ、祭器でもある。そして、明確に遺物として残り、研究に欠かせない。

関西の土器編年[27]
  • 小林行雄、(土器の分類を5系統(S18年)、三角縁神獣鏡の同笵鏡が各地の古墳に埋葬されることから、ヤマト王権を論じた。)弥生土器を精緻に研究し、土器編年の基礎を確立した。
  • 佐原真、(倭国大乱と高地性集落(当時は古い時代だけ)を結びつけ、関西の弥生式土器編年を定める。後期は実際より200年ずれていた。)佐原は、考古学全般の指導をし、権威の一人とされる。
  • 田中琢、(小林の5系統に加え、古墳直前の土器として、庄内土器を見出し、弥生の時代区分に疑問をていする。庄内土器は、初期古墳の時代に現れ、時代区分として重要なだけでなく、畿内から九州を含む全国に広がり、以前の土器が地方的な特徴を備えていたのに対し、全国で地方色が殆ど無い点で、関東地方以西での古代権力が生まれたことを示す点で重要である。)
  • 都出比呂志、(佐原編年表より、100年時代を遡る編年表を発表し、新しい編年表の流れをつくる。)都出は、卑弥呼以後、全国に広がる前方後円墳をもって、全国規模の政権が成立したとして、その性格を、前方後円墳体制と名付けた。
  • 寺沢薫、森岡秀人らと、弥生の年代を大幅に書き換える。発表は、都出と同時期で、森岡より早い。)寺沢らは、前方後円墳以前からクニが成立したと考えている。
  • 森岡秀人、(『卑弥呼の謎、年輪の証言』によると、小野忠熈の九州・関西の土器編年の併行関係の統一という示唆により、近畿の弥生の土器編年(したがって弥生時代の範囲)を変えた。)根拠
①高地性集落(武器、のろし、砦、見張り台)がふたつの時代にあり新しいほうが倭国大乱に当たる、
②九州と関西の両方に出土する土器が見出された、
③後期の遺跡が圧倒的に多く、新しい遺跡は住居跡の数から従来の年数より長い期間に渡る、
④王莽の時代の貨幣が弥生後期の遺跡から出土する。
以上から、弥生後期は200年さかのぼると主張し、後年、年輪年代学で森岡の主張は確認された。実際は、さらに200年遡ることになる。

そして、弥生の後期には、九州と関西で同じ社会状態であることが判明した。例えば、弥生終末期、薄手の庄内式土器が関西から九州へ伝わるなど。また、卑弥呼の死と、箸塚古墳の時代が一致することが判明する。いままで、邪馬台国に意見を言わなかった考古学者の9割が、年輪年代法の成果を受けて、邪馬台国関西説になる。[28]

日本列島の統一過程   鏡、青銅祭器、古墳の編年と分布論(遺物分布の移動) [編集]

分布論

地方のまとまり、広さは、文化的同一性を示すとともに、弥生後期や、古墳時代、豪族の支配地域を示す指標にもなる。 鏡の編年から、いつの時代に、どの地方にどういう鏡が分布しているかが解る。これによると、北九州中心から、北九州と畿内を同心円とする2重構造の時代を経て、関西に鏡が集中する。そして、初期ヤマト政権により、三角縁神獣鏡を主に、椿井大塚山古墳の主から全国に鏡が配布された(定説)。ただし、配布者であり、政権の支配者ではない。[29]

  • 九州から大和へ鉄品や祭器の移動    弥生時代と古墳時代の境界で、鉄の鏃、鉄の銭、鉄の素材や、鏡などの祭器が、九州から機内に移動した。(原因、邪馬台国の畿内への東遷、畿内政権による邪馬台国の征服)

青銅祭器と文化圏 と分布・分配論

九州は、出雲は、畿内は(もしくは、銅鐸[30]であった。2大中心は、九州と畿内で、出雲はこれらに挟まれていた。2大、3大文化圏、があった。

生産の中心地や、重要な祭器とさほどでない祭器の配布の分布先が、同心円状に広がる事が証明されている[31]

古墳

さらに、弥生式墳丘墓(墳墓、古墳)が造られ、次第に発展し、後の前方後円墳に繋がる。その後、全国一斉に、ほぼ同時期に成立する巨大化した前方後円墳では、祭器や古墳の様式は、各地の形式や重要な祭器を持ち寄り一気に創り出された、と言うのが定説である。この最初をなすのは箸墓古墳である。[32]

古墳の解明は、土器編年、年輪年代学、埋葬品などで進み、日本古代史の基本的な社会編成の原理や精神と年代は確定されつつある。古墳の編年は、外形、石棺、埋葬品、埴輪などで決まるが、絶対年代の確定には、年輪年代学を中心に、放射性炭素測定、土器編年などが重要な役割を果たした。[33][34][35]

日本列島の統一     考古学から見た[編集]

祭器に見られる、2大文化圏と出雲吉備[編集]

祭器から、九州と関西の2大文化圏があり、その中間に出雲吉備讃岐の一部を含む文化圏があった事が解っている。[36]

  出雲、吉備

  • 卑弥呼の前、出雲・吉備への地方的な統一     出雲や吉備には、広い地域(主に、山陰山陽、北陸(一時期)に及ぶ)から豪族が集まり、古墳の主の死を悼んだことが、古墳に埋められた遺物からわかる。
  1. 卑弥呼の前の時代、古墳の発生期(弥生最晩期)前方後円墳の数十年前に、北陸から山陰にかけての豪族が出雲に集い、古墳を形成し、豪族の死を祭ったことが判明している。また、吉備でも同様であった。
  2. これらの墓は甕棺からの連続した墳墓の形成を示し、さらに前方後円墳へと切れ目なくつながっていく。

  高地性集落

  1. 倭国大乱の時代、武器などが多数出土する高地性集落が再度生まれ、環濠集落が前の時代から続き、全国的な戦乱が起きていたが、卑弥呼の時代になると、両者とも消える。
  2. 高地性集落は、海沿いの見晴らしのよい高台、山にあり(海の無い内陸にもあるが)、九州からの勢力に備えた可能性があると言う一方、全国的と言う記述もある[37][38]。戦争のための砦であり、同時に、交易を促進する面があると、近年言われだしている。交易ネットワーク論である。

  出土品の九州から機内への移動

  1. 鉄の鏃、鉄の銭、鉄の素材や、鏡などの祭器が、弥生と古墳時代の境で、九州から畿内に移動する。東遷説(九州の覇権)と、九州をヤマト吉備が征服説がある。
ヤマト吉備説では、九州にヤマト吉備勢力が侵入した形跡があり、侵入後、北九州の農業の生産性は2倍になったと考古学の証拠を挙げる研究者がいる。その一方、北九州説では、北九州勢力が、東遷し、畿内を含む全国を統一した。なぜなら、鉄器、鏡などの利器、祭器は北九州を中心に分布していたからと言う根拠である。

畿内の纏向都市と箸墓古墳[編集]

  • 纏向・箸墓(最初の前方後円墳)への全国からの結集      箸墓古墳と纏向に、全国からの土器などが集まり、地方差も薄れる。[39]。文献学との絡みで言えば、考古学者の9割は、邪馬台国は関西と考えている。しかし、この結集をどの勢力が主導したか、はっきりわかっていない。考古学でも、意見が分かれる。
  1. 出土品の移動の時代を経て、奈良の纏向に、いきなり、都市が出現し、全国の中心になった。この建設には、九州から関東までの広範囲から人が集まり建設に携わった。各地の土器の割合が、纏向の地で50%を占めていた。
  2. 纏向は150年続き、そして見捨てられた。
  3. 卑弥呼の前後で、土器の地方差がほとんどなくなり、古墳も統一される。卑弥呼と同時代の箸墓古墳の一帯(纏向-卑弥呼の都した場所)は、各地の土器が半分を占め、関東地方を含む各地から人々が集まってきた様子がうかがえる。
  4. 卑弥呼の時代、濃尾平野より東の東日本の前方後方墳(墳墓が四角)と、西日本の前方後円墳(墳墓が丸)が並行し、ふたつの政治圏があったようだが、やがて、すぐ、両者は前方後円墳に統一された。ただし、後円墳も後方墳も、石室など、墳墓の形式が同じで、各地の石、宝物、土器が持ち寄られ、関東から九州の豪族の全国的な共同体が生まれたことが解る。その後も、前方後方墳は残ったが、超大型は消えている。

  その後150年、王の古墳の河内への移動(応神天皇の時期)

  1. 5世紀初め、馬の埴輪など、古墳が多少変化した事実から、江上波夫が騎馬民族征服説をとなえた。確かに、高句麗の影響が見られるが、古墳は前の時代から連続し(竪穴石室への横穴追加など)、征服説は成り立たない。関東には、完全な横穴形式の石室がある前方後円墳があり、この地方に、朝鮮半島から移住した豪族がいたことをうかがわせる。
  2. 本当の意味での統一国家は、この応神天皇の5世紀はじめとする見解がある。それまでは、体制ではあっても国家ではない。[40]
  3. 王の墳墓が、奈良から河内などに移動し、畿内の中ではあるが、王権が移動した可能性がある。(王朝の性格が古代的な祭祀から、広開土王との戦いを通じ、戦闘指揮に変わった。)

なお、最近、古墳以前に、小さなクニが出来たという説が出されている。このクニは、文化圏を統一するような存在ではなく、村、郡ていどの大きさの政治集団をクニと定義するものである。

代表的古墳研究者

  • 近藤義郎、(古墳考古学に大きな足跡を残す。前方後円墳の成立過程を弥生時代の墳丘墓の時代から解明し、前方後円墳が持続的な連続した発展の結果である事を明快に示した。また、群集墳や塩、製鐵などの先駆的な研究もある。前方後円墳の時代
  • 都出比呂志、(古墳考古学から、卑弥呼の時代、全国的な国家体制が成立した。前方後円墳体制論

 古墳は、教育委員会などが集団で調査し、研究者の名前を上げることは難しい。

  • 白石太一郎、(古墳考古学、古墳の主である豪族を悼む各地の豪族の結集)

 応神朝の意義

  • 江上波夫、(東洋考古学、騎馬民族征服説)騎馬民族征服説と言う大胆な仮説で、一世を風靡した。この説は否定されているが、日本を東アジア史の中に位置づける意義を明快に示し、日本歴史学に1時代を画すことになる。

先史・古代の流れ[編集]

弥生・古代史[編集]

弥生時代  BC900年~AD250年[編集]

弥生早々期

早期の最下層の遺跡からは、朝鮮半島系の土器はほとんど出ない。朝鮮半島系の祭器も出ないが、次第に拡充されていく。朝鮮半島由来の稲作の祭りが普及した。また、支石墓も増えて行った。

支石墓は、漁撈民が北九州の東岸に築いたという説があった。しかし、近年、北九州一帯に支石墓が見つかり、この説はもはやあまり顧みられない。

しかし、祭器一式が整い、支石墓が普及するのは北九州だけで、その他の西日本では、祭器は次第に存在が薄れ、また、支石墓は見出されていない。縄文系の刻目突帯文土器は、西日本で後々まで、半分程度を占める。縄文人と弥生人が共存したとされる。しかし、縄文系の土器の少ない遺跡も多い。

受け入れ当時の土器に基ずく社会状況の推定は、刻目突帯文土器を参照。
早期、前期

弥生時代早期の100年後、前期が始まり、弥生文化は急速に西日本に広まった。尾張の東半分までである。この一帯までの西日本は縄文時代には同じ文化圏であった。[41]

中期

紀元前、倭国は100国以上の国が成立し、弥生後期になるが、AD100年頃、倭国が成立する。(魏志倭人伝)

この弥生中期の時代、朝鮮半島のある島では、大量の弥生土器が出る。日本から交易に出かけた拠点であるとされる。後期、この島からは、弥生土器は急速に減る。

後期

卑弥呼の前、出雲や吉備に巨大古墳が築かれ、北陸から山陰の豪族が参集し、出雲の豪族の死を弔った様子が遺物からわかる。また、卑弥呼以前、物部氏は九州から畿内に天下ったとの伝説を持つ。

九州には鉄器や鏡などの祭器が多数出土するが、卑弥呼の前後、九州の鉄器や祭器は急速に減る。九州の勢力が東遷したのか、滅ぼされたのか両方の説の根拠の一つになっている。

  • BC2世紀~紀元前後、倭国は100余の国(漢書)
57年後漢に倭奴国
  • AD100年頃、倭国成立、(魏志倭人伝、70-80年後、倭国大乱)
107年、倭国王帥升、生口160人献上、倭国の一国との説もある
  • 178-184年、倭国大乱(漢の霊帝の時代)
  • 188年、魏、卑弥呼に金印紫綬、 銅鏡100枚。
古墳時代
  • AD250年前後~

倭国の卑弥呼の墓の可能性のある、箸墓古墳以後が古墳時代とされている。しかし、箸墓古墳の前駆的な古墳が最近明らかにされている。

邪馬台国論争[編集]

弥生時代から古墳時代での考古学の発掘の結果

銅鏡は九州、銅鐸は畿内を中心に分布し、銅鏡勢力が畿内の銅鐸勢力を滅ぼしたという説がある。 しかし、銅鐸はまず畿内の中心部から消え、次第に周辺からも銅鐸は消えて行った。そして、かなり遅い時期でも、小さな銅鐸が東海地方では出土している。これは、畿内の勢力が、銅鐸を廃止したか、銅鐸が村の祭りで、畿内の権力が銅鐸を祀る村の力を排除した可能性がある。

銅鐸廃止と並行して、環濠集落も消えて行った。村落を中心とする小さな勢力が、統合され、環濠集落や銅鐸を必要としない、もしくは嫌う状態が実現した。これが、畿内か、吉備の勢力かは不明である。両説ある。

これは考古学の成果で、考古学者はいずれにせよ、邪馬台国大和説だが、主導権をどこが握ったかは不明である。 さらに、考古学的には、九州へ吉備ヤマト勢力が侵入していった形跡がある。そして、九州の農業生産力は大きく向上している。さらに、九州には大きな古墳が無い、後に次第に大きくなるが、九州の勢力は、卑弥呼の時代、すでに弱体だった。

この様に、記紀の分析による九州説は、考古学の分析からは、妥当性が無いとするのが考古学の結論になっている。もちろん、九州説の考古学者もいる。

邪馬台国関連の年表  三輪王朝参照

九州説と大和説が、2大学説である。ただ、1.魏志倭人伝の記述が不正確で、2.土器や鏡、古墳、環濠集落や高地性集落の戦闘用の砦の全国的な配置や推移などの考古学資料、3.神話での土地の名前の配置状況(地名学)や、神社のある場所、文献批判学、数理文献学の手法を用い、総合して判断する必要がある。

日本神話や邪馬台国に関しては、江戸時代から、現在の説の基本は出ている。神話は架空とする山片蟠桃、九州説・畿内説両方を唱えた新井白石など、活発な議論があった。現在は高天原の場所は、あまり議論されていないが、江戸から戦前にかけては、高天原が、現在の邪馬台国以上に、重要視されていたことに、注意が必要である。

邪馬台国の場所だけでなく、王権の性格がどのようなもんであったかが重要とされる。

 邪馬台国論争の歴史家[42]
  • 新井白石(「古史通或問 魏志倭人伝合理的研究『古史通或問』大和説、後、九州説 
  • 本居宣長(「馭戎慨言 九州説。卑弥呼は熊襲“偽僭説” )
  • 内藤虎次郎(湖南)(「卑弥呼考 地名、官名・人名考証、大和説、古書検討、方角誤りが多「南」を「東」の誤。卑弥呼、男弟を景行天皇にあて、倭姫命 )白鳥が関東系の代表に対し、内藤は関西系を代表する学者。
  • 白鳥庫吉(「倭女王卑弥呼考 九州説 1万 7百余里を帯方郡-邪馬台国1万 2 千里から引く1千 3百余里。邪馬台国は九州。陸行一月を一日の誤写 )関東系の首魁
  • 橋本増吉(「東洋史上より観たる日本上古史研究 内藤説批判。卑弥呼を崇神朝、筑紫が朝廷の支配下になかった、九州 )
  • 山田孝雄(「狗奴国考 伊都国以降の記述は伝聞、南を東の誤、山陰海岸沿いの日本海航路。投馬国は但馬、邪馬台国は大和国。邪馬台国と敵対狗奴国を毛野国 )

戦前、卑弥呼を大和朝廷の誰と結びつけるか、卑弥呼の王権をどうとらえるかが問題にされた。[43] さらに、高天原の存在がどこかが、より多く議論されていた(安本美典)。

  • 喜田貞吉(「漢籍に見えたる倭人記事の解釈」倭人、卑弥呼は大和朝廷傘下の九州の王、「魏志倭人伝」は卑弥呼と大和朝廷を混同、邪馬台国を遠く )
  • 笠井新也(「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命」 卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命、箸墓古墳(奈良県桜井市)を卑弥呼の墓 )

三角縁神獣鏡は、卑弥呼の遣使に「銅鏡百枚」を授けた銅鏡百枚に比定されている。この真偽と出土場所で、邪馬台国の位置が考古学的に立証される。[44]

  • 高橋健自(「考古学上より観たる邪馬台国」 卑弥呼-古墳時代、畿内の古墳が伝播、前漢鏡が北九州、後漢三国六朝時代の鏡が近畿、邪馬台国が大和。考古学者による斬り込み )
  • 富岡謙蔵(「古鏡の研究」 三角縁神獣鏡を、魏志倭人伝の中の「銅鏡百枚」に )
  • 梅原末治(「鑑鏡の研究」 鏡の集成を徹底し、同笵鏡を認め、鏡の伝世や銘文解釈 )

【戦後の邪馬台国論争】

  • 津田左右吉(「邪馬台国の位置について」『神代史の新しい研究』古事記や日本書紀は、後世の創作。卑弥呼を記紀と結びつけてた大和説はよりどころを失う。邪馬台国が奴国や不弥国の南方、筑後国の山門郡 )史料批判の大家。
  • 和辻哲郎(「新稿日本古代文化」「銅鐸文化圏」「銅剣・銅矛文化圏」、大和朝廷は邪馬台国が東遷を提唱 )

邪馬台国がどのような形態の国家であるかは、大和説をとれば、3 世紀の中ごろ西日本におよぶ勢力が存在したことになる。九州説では九州、畿内などの分裂割拠状態にある可能性が高くなる。[45]

  • 藤間生大(「埋もれた金印」 2.3世紀の国家構造、東アジア、邪馬台国は政治的社会の発育度から、北九州、卑弥呼は連合国家に共立された女王 )
  • 上田正昭(「日本古代国家成立史の研究」魏志倭人伝考証、九州・大和説を再検討、3世紀中葉には北九州を含む統属国の上に、共同体のアジア的形態、初期専制君主 )
  • 直木孝次郎(「国家の発生」邪馬台国と大和政権との質的な相違、両者を別系統の政権 )戦後史学を切り開いた重鎮である井上光貞が、直木孝次郎がいるが、歴史学を自らの手で切り開いたと述べている。
  • 井上光貞(「神話から歴史へ」邪馬台国は抜けた勢力をもつ専制国家ではない。卑弥呼は小国の支持なしには王位にはつけなかった。英雄時代 )戦後史学を切り開いた重鎮である。
  • 石母田正(「日本の古代国家」卑弥呼は巫女の顔と、国際情勢を読む開明的君主。魏が帯方郡を押さえたことに対応、邪馬台国の三十国に対する支配が確立。古代英雄論でも知られる。マルクス系の代表的学者 )
  • 榎一雄(「邪馬台国」伊都国までは方位・距離・国名、伊都国以後は伊都国を起点に放射線状に読む “放射線説” )
  • 室賀信夫(「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像―地図学史的考察」 1402年朝鮮地図、日本列島を南北にのび、東を南 )
  • 小林行雄(「古墳時代の研究」 古墳研究、鏡論や同笵鏡論、邪馬台国畿内説の理論的支柱。三角縁神獣鏡舶載品説は多くの研究者に受け継がれる )考古学の権威
  • 森浩一(「日本の古代文化―古墳文化の成立と発展の諸問題」三角縁神獣鏡が中国で全く出土していない事実を基礎に国産鏡説を最初に唱えた )
  • 王仲殊(「三角縁神獣鏡」中国の考古学者、三角縁神獣鏡を東渡した呉の工匠により日本で製作 )しかし、紐をでつるす穴の形状から、日本産(呉ではない)と言う説がその後出された。
  • 宝賀寿男(ほうが としお) 系譜学を革新した。系譜学会会長、系譜にもとづき、論証を進めている。 

邪馬台国東遷説・邪馬台国征服説

邪馬台国東遷説は、哲学者和辻哲郎が唱えた。逆に、邪馬台国は、ヤマト王権により滅ぼされたという説もある[46]。いずれにしろ、ヤマト王権の時代になる。東遷説の系譜は以下。
  • 白鳥庫吉 1910年『倭女王卑弥呼考』高天原は、筑後山門での卑弥呼[47]
  • 和辻哲郎 1920年、『日本古代文化』で、物語の中核は残る。東遷説の最初
  • 和田清、1956年、『東洋史上より観たる古代の日本』、卑弥呼の国が東征して大和朝廷、卑弥呼と天照大神の同一性
  • 榎一雄、1960年、『邪馬台国』、皇室が九州に発祥している事実を反映
  • 井上光貞、1960年、『日本の歴史』邪馬台国の東遷
  • 安本美典、邪馬台国東遷。[48]年代法の確立者、天皇在位は平均10年で、時代を遡るほど短くなる。この計算では、卑弥呼は天照太御神になる。地名学に基づき、九州と関西の地名の類似配置を詳しく調べ、出雲と高天原の位置関係を論じた。

ヤマト王権論、王朝交替説 と豪族の変遷[編集]

ヤマト王権において、江上波夫の騎馬民族征服説は、海外騎馬民族による王朝交替説と言え、征服王朝は応神王朝に相当する。この説は、無理な点が多く認めるものは少ない。その後、水野祐は、3王朝交替説を唱えた。(騎馬説は海外からだが、3王朝は国内)。ただし、ヤマト王権の基本は継承されているという点では、学会の多くは一致している。

ただ、近年、再び、王朝交代は無かったという説が浮上している。

  • 崇神王朝、大和三輪、古墳時代前期
イリ彦、イリ姫など、イリの名が多い 
考古学的には、奈良の王朝の置かれた纏向(約150年)が、崇神王朝の末期に見捨てられた。
纏向は、卑弥呼の時代に創設される。卑弥呼との関係が取りざたされているが、諸説ある。
  • 応神王朝、宮と御陵が河内に置かれた、倭の五王の時代である、
纏向が見捨てられ、古墳群も移動する。しかし、内陸から交通に便利な海岸に移動しただけともされる。
王朝の真の始祖を仁徳とする説もある。(水野拓)
一族にワケの名が多い ホムタワケの尊(応神天皇)

この時代が倭の5王の時代にあたる。倭の5王は、応神朝の王に比定されているが、対応関係が非常につけにくい。倭王の名前が、記紀の名前と合わないだけではない。史書では血筋を非常に重要視するが、記紀の血筋の記述と合わない。定説では、崇神朝の各大王に間違いないとされる(対応が確実視されるものと、意見が分かれる物がある)が、日本列島に北九州にも王朝があり、そこから倭の王を名乗って大陸に渡ったと言う説である。しかし、全国的な考古学出土品などから、独立した2王朝と言う説にはかなり無理がある。

朝鮮半島の史書に日本から派遣された使者の固有名詞の記述が多く、その名は記紀にもあり、この点からも日本書紀に書かれた応神朝の実在は確実視されている。また、武の時代、百済が滅び、弁韓を割譲し百済を再興させたとある。この時期、半島東南部に、朝鮮半島にしては巨大な規模の前方後円墳が10数基造られている。内臓品も和系である。そして、朝鮮半島の前方後円墳はこの時代だけである。

  • 継体王朝、近江から奈良に入る  
天皇の5世の孫、とされ、王朝が変わった根拠とされる。

三輪王朝(200年前後-390年前後)

大和の三輪地方を中心にした王朝で、箸墓古墳の勢力が作り、祭祀を中心にした政権である。
卑弥呼の死んだ250年頃、箸墓古墳(最古の前方後円墳)が造られ、箸墓古墳のある纏向遺跡には、地方色の薄れた土器が全国から集まった。この時期環濠集落は消え、戦乱が収まった様子が見える。全国に前方後円墳が造られ、これらから、箸墓古墳の体制を、全国的な豪族の連合した国家と考える説(前方後円墳体制、都築)がある。箸墓古墳の初期には、尾張から関東は前方後方墳、畿内から西は前方後円墳であったが、両者とも同じ埋蔵物であった。その後すぐ、尾張から関東も、前方後円墳に急速に変わる。
  • 250年頃、箸墓古墳-天照大御神? (古墳時代の始まり、各地の土器が集結)が造られる。
266年、倭の女王、壱与、西晋に遣使する。

応神王朝(390年前後-507年)-河内王権

広開土王の碑文399-404年に見られる、倭の半島進出から、王権の性格が軍事力を柱としたものに変わった(古墳への主な収納物が、鏡などの祭器から武具に変化する)。これを河内王権(応神朝-応神から武烈まで11代)と呼ぶこともある。(倭の五王、413年-502年はこの時代)
 神功皇后と応神
応神(実在性の高い最初の天皇)の母、神功皇后が大陸進出(広開土王)を果たしたとも言われる。応神の臣、葛城襲津彦が戦闘を指揮して390年半島に渡る(百済記)の記録もある。
369年?応神天皇の母、神功皇后が加羅7国を平定する。(直木孝次郎、虚像と指摘した。)
ただし、新羅の国書には、倭の侵攻がたびたびあった事が記載されている。
  • 399-404年広開土王
391年、倭、百済を臣民とする。
390年 応神の臣、葛城襲津彦(百済記)が朝鮮半島で活躍する。
399年、新羅に倭人が侵入、倭の臣下とした。400年、高句麗は5万の大軍を派遣するが、新羅の王都を倭が占領。
404年、倭が帯方に侵入、倭、大敗する。
神功皇后については、遠い昔、その様な人物がいた事を否定しないが、ほとんど忘れられ、後世、いろいろな伝承を組み合わせた虚像であると、直木孝次郎が論じ、定説となっている。
 武-雄略天皇
「武」雄略(ワカタケル大王)が中興の祖と言われ、462年新羅を攻め、人質の王子を百済の王とした。大臣の平群真鳥、大連の大伴室屋と物部目を率い、大和国内の豪族の力を削ぎ、統一政権の性格を強めた。478年雄略の下で、大伴室屋が半島担当となり、滅亡した百済に、弁韓の地の一部を割譲、後の室屋失脚の遠因となる。
埼玉県稲荷山古墳や、熊本県江田山古墳出土の鉄刀にワカタケルとある
450年頃~550年頃、弁韓(この時期には、弁韓は朝鮮半島の南西部一帯を占めていた、特に、その西部、いわゆる狭義の弁韓の外側)に前方後円墳が出現する。
  • 413-477年、倭の5王入貢、武、祖彌みずから甲冑をつらぬき・・・東は毛人を征すること55国。西は衆夷を服すること66国。渡りて海北を平らぐること95国。
462年、朝貢しない新羅を攻める。
  • 463年、吉備田狭反乱
  • 475年、百済滅亡し、任那の一部を分け与え再興させる。
この時代、朝鮮半島南部、任那割譲地を中心に、日本の前方後円墳が、多く造られる。内装品も和系である。ただし、九州系が多い。逆に、九州を中心に、全国的にこの地方の道具武具が、古墳に多く埋蔵されている。朝鮮半島に渡った九州の勢力が、半島の文化を持ち帰ったと言う。(韓国の学者)
  • 479年、雄略、百済とともに高句麗を攻める。
雄略は、英雄とも、極悪天皇とも、両方の記述が日本書紀にはある。

継体朝(507年- )

福井から近江にかけて力を持った継体(応神天皇5世の子孫)が、奈良に入る。この時、応神朝の中心勢力である、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人らが、継体を迎え入れたとされる。継体朝は、前の政権を受け継ぎ基本的な性格は変わらないとされている。
物部麁鹿火は岩井の乱527年を平定 - 567年守屋失脚まで豪族の中心。その中、蘇我稲目536年 - 645年(大化の改新)まで、蘇我氏が中心となる。
雄略(ワカタケル)の大王中心の国家形成に、以前は大王とほぼ対等であった地方の豪族の力が弱まった。この豪族の不満と反発が、継体が崇神王朝(とも称される)を継ぎ、継体朝をたてる遠因になったという説もある。

蘇我氏と大化

より詳しいサイト[編集]

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民族学 民俗学 神話学 文明論 照葉樹林文化論 地政学

文献学 史料批判 上代日本語 編年 地名学 

考古学 縄文時代 土器#土器研究と考古学 放射性炭素年代測定 年輪年代学 型式学的研究法

弥生時代 稲作#日本への伝来 古墳時代 分配理論 箸墓古墳 邪馬台国 出雲国 吉備国

ヤマト王権 王朝交替説 河内王朝 雄略天皇 継体天皇 蘇我氏 日本政治史

歴史家の一覧 日本建築史#日本建築史の研究者

脚注[編集]

  1. 安本美典、『高天の原の謎』
  2. 今は、倭の奴の国王と読む以外の解釈は無いが、どこどこの地域(国)のさらに下位の国の王と言う2重の序列の印は、一例もないとする批判がある。
  3. 単系制では母方と父方の呼び名が変わる。甥にとって、母方と父方の叔父の役割が全く異なるために呼び名が変わる。母方の叔父は甥と親しく接し世話をすることが多い。
  4. 双系制は女系にも、従って娘婿にも相続権がある
  5. ナラ林文化は照葉樹林文化と並ぶ、日本の文化のふたつの源泉とされる
  6. 植物学者、佐藤洋一郎、稲の遺伝子を解析し、朝鮮半島には無い稲の品種が日本には多数あり、大陸から直接来た稲(少なくとも半分)がある事を証明した。
  7. 現在のところ、この説を裏付ける証拠は文献にも、考古学的にも、遺伝学的にも無い。
  8. 梅棹は、砂漠だけでなく、海にも注目し、文明の生態史観を出したすぐ後から、毎年多くの共同研究をしている。海洋と陸の位置、構造関係に、類似性がある、とした。しかし、まとまった著述は無い。
  9. 川勝は、京都学派の歴史主義にひかれ、若いころその研究をし、川勝自身の歴史主義は京都学派に基ずくとする。博士論文と考えられ、手に入らない。また、理論の具体的な内容は不明である。
  10. 弥生時代の開始年代について
  11. 安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! 』2009年
  12. 山澤 金五郎 飛騨に於ける寛永五年以來樹木の成長に就いて 気象集誌. 第2輯/7 巻 (1929) 6 号.186-190.
  13. 倉橋秀夫『卑弥呼の謎、年輪の証言』1999年-ジャーナリスト、学者への取材証言を集めた書、
  14. 伊藤延男、三浦定俊「木材年輪年代法」『保存科学』No21
  15. マルコム K ヒューズ 年輪に気象の歴史を読む 森林科学23 1998.6. 11-19 
  16. 安本美典、『高天の原の謎』
  17. 白石太一郎, 『古墳とヤマト政権―古代国家はいかに形成されたか』文藝春秋社、1999
  18. 文献学者の側は、考古学者が事実を示すと、それまでの説が覆されてしまう。恐ろしいと、述べている。英雄の決断NHK
  19. 安本美典、『高天の原の謎』、徳間書店、1989
  20. ウェーバーは歴史社会学者とされる。歴史学+社会学。しかし、ウェーバーの背景には経済学、ドイツ歴史学派がある。歴史学派とは言うが、ワルラス、メンガーなどの経済学に反対し、歴史的な資料で経済を中心に再構成する事を主張した。そして、ウェーバーの出る前、最終段階では、巨頭シュモラーは、理論や原理を全否定した。ウェーバーは、これに対し理論提示する事になる。もう一つは、プロテスタントの両親との関係で、神経症を患い、ウェーバーの終生の課題となった。ドイツ歴史学派との対立は、経済学ではメンガー、歴史学ではウェーバーが担う。シュンペーターもいる。
  21. 井上光貞らは、ウェーバーを認めるが、理念型を生み出さない。
  22. 芝井啓司 現代歴史学と数量的方法 史林 1981、64(3) 353-387  ピーター・バーク (著), 大津 真作 (翻訳) フランス歴史学革命 アナール学派 1929-89年 (岩波モダンクラシックス) 2005 岩波書店
  23. 弥生文化の輪郭 藤尾慎一郎 灌漑式水田稲作は弥生文化の指標なのか 国立歴史民俗博物館研究報告第178集 2013年 3月.85-120
  24. 弥生文化の輪郭 藤尾慎一郎 灌漑式水田稲作は弥生文化の指標なのか 国立歴史民俗博物館研究報告第178集 2013 年 3 月 。85-120
  25. なぜ、西日本で止まったかは、刻目突帯文土器を参照。
  26. 中橋 孝博, 飯塚 勝 北部九州の縄文~弥生移行期に関する人類学的考察 Anthropological Science 106 巻 (1998) 1号. 31-53
  27. 倉橋秀夫『卑弥呼の謎、年輪の証言』、1999年、著者はジャーナリスト、取材して書いています。
  28. 倉橋秀夫『卑弥呼の謎、年輪の証言』、1999年、著者はジャーナリスト、取材して書いています。
  29. 京都大学考古学研究室編 『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』京都大学文学部  1989
  30. 銅鐸と言うのが定説である。しかし、銅鐸は畿内中心部では消え、纏向の前の時代の権威の象徴として、鉾を挙げた。出雲の剣の文化圏は、鉾の文化圏の中に含まれる。剣と鉾は、出土の剣に柄が無いため、区別がつきにくい。銅鐸は村祭りとの関連も指摘されている。銅鐸がどのような意義を持っていたか、解っていない。
  31. 同じ文化圏では、多くの場合、政治勢力が中心にあり、文化の統一がなされる。政治勢力内で交通が容易になり、古代では、権力が文化を担う側面があるからである。しかし、弥生時代にこの原則が当てはまるかは、解らない。権威、文化の中心が、北九州、畿内に分かれていた。
  32. 箸墓の前に、箸墓古墳と類似の形式が畿内に見られることが最近見いだされた。
  33. 倉橋秀夫『卑弥呼の謎、年輪の証言』、1999年、ジャーナリスト、取材。
  34. 都出 比呂志『古代国家はいつ成立したか』岩波2011
  35. 白石太一郎, 『古墳とヤマト政権―古代国家はいかに形成されたか』文藝春秋社、1999
  36. 文化圏は同時に政治的勢力を示すと言われている。この時代は、民族学、民俗学が示すように、祭政一致であり、政治的な指導勢力を伺わせる。しかし、判然としない。2大文化圏を言い出したのは、和辻哲郎である。
  37. 『高地性集落と倭国大乱 小野忠熈博士退官記念論集』
  38. 白石太一郎
  39. 白石太一郎、『古墳とヤマト政権―古代国家はいかに形成されたか』文芸春秋社,1999
  40. 近藤や都出が,統一国家を否定している訳ではない
  41. 刻目突帯文土器は縄文土器として弥生土器との境にあり、分布から縄文時代の文化圏が解る。早期の遺跡にも存在し、どういう社会であったか推定が可能になる。
  42. 国立国会図書館第85回 常設展示、邪馬台国論争、平成10年1月7日~1月23日を元に作成。
  43. 国立国会図書館第85回 常設展示、邪馬台国論争
  44. 国立国会図書館第85回 常設展示、邪馬台国論争
  45. 国立国会図書館第85回 常設展示、邪馬台国論争
  46. 出土品の九州から機内への移動も参照
  47. 以下は、邪馬台国東遷説を参考 http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/tosensetu.htm(リンク切れ)
  48. 安本美典、『高天(たかま)の原の謎―日本神話の世界』