柳田國男

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柳田國男(やなぎた くにお、1875年7月31日 - 1962年8月8日)は、民俗学者

日本民俗学の創始者であり伝説的巨人として今なお、民俗学の世界のみならず、柄谷行人などから大きな関心を向けられている。一般に知られた著作は初期の『遠野物語』である。これは岩手県の佐々木喜善の協力を得たが、のち佐々木とは疎遠になり、佐々木は「聴耳草紙」を執筆した。折口信夫は弟子筋に当たるが同性愛者であることから柳田に嫌忌され、柳田は帝国芸術院・帝国学士院双方の会員であったが、折口はどちらの会員にもなれなかったのは、柳田が邪魔したからだとされる。

三島由紀夫は「炭取りの廻る話」で、柳田の民話を語る語り口は巧みで、並の小説家を超えると言っている。特に『山の人生』における、自分の二人の子供を殺して自殺した男の描写は称賛されたが、初期の渡部直己は、これが「技術」に過ぎないと喝破した(「≪現実≫という名の回路」(『早稲田文学』1981年9月)。だが渡部は柳田崇拝の柄谷への遠慮から、この文章を単行本に収めていない。

生まれたのは松岡家で、兄に井上通泰、弟に日本画家の松岡映丘がいるという名家に生まれた。井上の曽孫にあたるのが坪内祐三である。若いころは田山花袋島崎藤村と親しく、新体詩を作る文学者だったが、東大を出て柳田家に婿入りしてから文学と決別して農商務省に入り官僚として活動するかたわら、民俗学を「経世済民の学」として進める。中年以降、『妹(いも)の力』『女性と民間伝承』などの著作を出し、『木綿以前のこと』『先祖の話』『不幸なる芸術』『海上の道』などを上梓、これらは昭和初年に大阪の創元社から創元選書として刊行され広い読者を得た。

政治的には保守派と見られ、批判も少なくない。村上信彦は『柳田国男と高群逸枝』で、柳田が婿入り婚について高群のように深い研究をしなかったとしたが、のち高群の側に史料の捏造があることが明らかになった。村井紀は『南島イデオロギーの発生 柳田国男と植民地主義』で、沖縄など南島に幻想を抱く柳田をオリエンタリストとして批判した。

島崎藤村の「椰子の実」は、伊良子崎へたどりついた椰子の実の話を柳田から聞いて書いたもので、柳田はここから、日本人は南方から渡来したという説を立て、宝貝を求めてやってきたと述べる『海上の道』を晩年に書いた。岩波文庫版の解説では大江健三郎がその「想像力」を礼賛している。

柳田が文学や詩と決別したのは、千葉県と茨城県の境の布佐での恋愛を断念した経験からだと、岡谷公二が『殺された詩人』『柳田国男の恋』で書いている。それは1898年に18歳で死んだ伊勢いね子という少女との恋であった。だが岡谷は『柳田国男の恋』に収められた「中川恭次郎という存在」に、柳田の知人だった中川という人物を描いて、森銑三から聞いた話を書き、中川の息子とされる夏樹を「彼女は、夏樹さんは恭次郎の実子なのではなく、さる有名人の隠し子なのだと教えてくれた。」(85p)、「「さる有名人」は、もしかしたら國男かもしれないという思いもあったからである。」(86p)とあり、柳田が生涯、中川に送金を続けていたことを記しているが、それ以上のことは書かれていない。