輪田一造
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輪田 一造(わだ いちぞう、1910年1月23日 - 1982年3月11日)は、日本の社会運動家。
経歴[編集]
石川県鳳至郡諸岡村(現・輪島市門前町)生まれ[1]。1929年石川県師範学校卒業[2]。在学中は社会科学研究会で活動、卒業後は石川県で小学校教員をしながら能登地方の農民運動に参加。1930年共産主義活動により解雇[1][2]、全協に参加。1931年メーデー闘争準備中に検挙。同年8月日本共産党に入党[1]、県内初の党組織を作るが[2]、全農県連合会準備会書記として活動中に検挙され、懲役2年の判決を受けた。1935年名古屋に潜行、陸軍造兵廠名古屋工廠千種機器製造所などにグループを組織、1938年指名手配で検挙。釈放後の1940年再検挙され、釈放後は徴用された[1]。
敗戦後の1945年日本共産党石川地方委員会を結成、委員長に就任[1]。1946年初代石川県委員長に就任[2]。1947年12月の第6回党大会で統制委員[1]。1950年6月の公職追放による主流派の地下潜行後、臨時中央指導部員に就任[3]。同月18日臨中が招集した全国代表者会議でテーゼ起草委員に選出(椎野悦朗・鈴木市蔵・渡部義通・堀江邑一・多田留治)[4]。1951年9月3日に占領軍政策違反として他の臨時中央指導部員や国会議員ら17名と共に逮捕状が出され非公然活動に入り[5]、北海道で活動[6]。1955年7月の六全協後、石川県副委員長、同常任委員などを務めた。1970年指導部と対立して除名された[1][注釈 1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 『日本社会運動人名辞典』、『20世紀日本人名事典』では1970年除名、『生還者の証言』、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では1971年除名。