竹中恒三郎
竹中 恒三郎(たけなか つねさぶろう、1909年1月30日 - 1987年10月21日)は、日本の社会運動家。日本共産党名誉中央委員。
経歴[編集]
京都市三条通生まれ。大阪商科大学(現・大阪市立大学)で社会科学研究会を組織、日本共産青年同盟の活動に参加。1930年治安維持法違反で検挙され、起訴猶予となるも退学処分。大阪市内で古本屋を開業し、1931年7月日本共産党に入党、家屋資金局関西出張所員。1933年治安維持法違反で再検挙され、懲役4年。1937年12月春日庄次郎、原全五らと「日本共産主義者団」を結成し、指導部の一員として反戦活動を展開[1]。1938年9月からの一斉検挙に会い、懲役10年[2]。
1945年敗戦により宮城刑務所から出獄[3]、京都で党再建に参加。同年12月の第4回党大会で統制委員、1946年2月の第5回党大会で統制委員・中央委員候補[1]、1947年12月の第6回党大会で中央委員[4]。同年中国地方委員会議長、1949年書記局員[1]。1950年6月6日のGHQによる日共中央委員24人全員の公職追放後、地下活動に入り、「三人体制」(志田重男、椎野悦朗、伊藤律)の下で紺野与次郎、杉本文雄、松本一三らと書記局的な役割を担った[5]。1950年7月15日に竹中を含む9中央委員に対し政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反で逮捕状が出され[6]、1955年6月に検挙された[7]。同年7月の六全協で中央委員、のち書記局員[8]。1956年1月大山郁夫死去に伴う第2回参議院議員補欠選挙に立候補、3万7,171票を獲得[9]。1958年7月の第7回党大会で志田や椎野を擁護して中央委員から外されたが、1961年7月の第8回党大会で中央委員に返り咲いた[10]。1973年11月の第12回党大会で名誉中央委員[1]。1981年7月の7中総で野坂参三議長、宮本顕治委員長と共に「50年党員」に登録された[11]。
備考[編集]
- 1945年10月21日に「解放運動犠牲者同志出獄歓迎集会」が京都新聞会館で開催され、徳田球一、竹中恒三郎、黒木重徳、金天海らが演説を行った[3]。
- 六全協から第7回党大会の間の一時期、財政部長を務めた[12]。
著書[編集]
- 『細胞活動早わかり』 春日正一共著、眞理社、日本共産黨中央書籍部、1947年
脚注[編集]
- ↑ a b c d 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、360頁
- ↑ 増山太助『戦後期 左翼人士群像』柘植書房新社、2000年、190頁
- ↑ a b 第二章 戦後の党再建と京都のたたかい 日本共産党京都府委員会
- ↑ 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、56頁
- ↑ 『戦後期 左翼人士群像』198頁
- ↑ 法政大学大原社研 九幹部の「地下潜行」、春日正一の逮捕〔日本労働年鑑 第24集 732〕
- ↑ 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』285頁
- ↑ 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』213頁
- ↑ 第三章 第7回党大会と綱領確定による京都府党の前進 日本共産党京都府委員会
- ↑ 『戦後期 左翼人士群像』186頁
- ↑ 『日本共産党の60年――1922-1982 写真記録集』日本共産党中央委員会出版局、1983年
- ↑ 樋口篤三『革命家・労働運動家列伝――樋口篤三遺稿集 第1巻』同時代社、2011年、109頁
参考文献[編集]
- 山崎一夫「松本一三」、現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』流動出版、1981年、179頁
- デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- 20世紀日本人名事典の解説