北京機関

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北京機関(ぺきんきかん)は、1950年日本共産党所感派中国北京に設置した非公然の最高機関。徳田機関孫機関とも。1957年半ばに解散[1]

幹部[編集]

伊藤律が北京機関の「高級幹部」として名を挙げた人物[2]

自由日本放送で働いていた国谷哲資は、1953年当時の北京機関の主な指導者として安斎庫治(中国名・劉)、北京機関の中央幹部で自由日本放送の編集委員を務めた人物として石田精一(中国名・石)の名も挙げている[1]。後に国内指導部の幹部・紺野与次郎宮本太郎河田賢治国際派の幹部・袴田里見も北京機関の幹部となっている[1]

工作員[編集]

北京機関は在外代表部と、自由日本放送の実務を担当する作業班に分かれていた[3]。伊藤律によれば、自由日本放送には作業班(調査・執筆等)と電信班があった[4]。国谷哲資によれば、自由日本放送の放送局は編集室・調査室・文芸班・アナウンス班・総務班・受信班から構成された[1]

作業班[4]
編集室[1]
調査室[1]
  • 横川次郎 - 元満鉄調査部勤務。
  • 雪野勉 - のち農民部長。
  • 西井教雄 - のち東京都委員長。
  • 榊利夫 - 1954年頃から1年ほど勤務。のち常任幹部会委員。
文芸班[1]
アナウンス班
所属不詳

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 国谷哲資「北京追憶――若者が体験した戦後日中関係秘史――」『アジア社会文化研究』20号、2019年3月。
  2. 川口信行、山本博『伊藤律の証言――その時代と謎の軌跡』朝日新聞社、1981年、173頁。中国名は国谷(2019)による。
  3. 渡部富哉監修、伊藤律書簡集刊行委員会編『生還者の証言――伊藤律書簡集』五月書房、1999年、278頁。
  4. a b 伊藤律『伊藤律回想録』文藝春秋、1993年、31頁。
  5. 渡部富哉監修、伊藤律書簡集刊行委員会編『生還者の証言――伊藤律書簡集』五月書房、1999年、26頁。

関連項目[編集]