松本三益
松本 三益(まつもと さんえき、1904年2月20日 - 1998年7月19日)は、日本の社会運動家。日本共産党中央委員会顧問。旧姓は真栄田。沖縄の革新の元祖といわれる[1]。
経歴[編集]
沖縄県那覇市松山町生まれ[2]。高等小学校卒。1922年大阪で阪神電気鉄道に入社、日本労働総同盟に加盟して労働運動に参加[3]、1923年解雇。同年在阪沖縄出身者による社会主義研究会・赤琉会に参加[4]。1925年全日本無産青年同盟初代大阪府委員長。1926年沖縄青年同盟の結成を指導[3]。同年大阪紡績染物労働組合争議部長として東洋紡績三軒家工場のストライキを指導して検挙、騒乱罪で懲役6ヶ月[4][5]。1928年の第1回普通選挙では井之口政雄の政治秘書として沖縄で活動[1]。1930年より農民運動に参加、1931年日本共産党に入党。1933年全農全国会議派書記・党農民部員として活動中に検挙、懲役2年[4]。1937年7月『大阪球陽新報』が創刊され、企画・編集を担当(1941年2月廃刊)[6]。1938年、1940年に党再建運動で検挙[4]。1942年3月起訴留保、保護観察。同年8月妻の松本ツル(平良ツル)が検挙されたことにより2ヶ月拘置されたが不起訴[7]。
敗戦後の1945年11月日共に再入党[8]、党再建活動に参加[3]。同年12月比嘉春潮、伊波普猷、永丘智太郎らとともに沖縄人連盟の創立に参加して幹事長となり、引揚者に対する救援運動などに従事[9]。1947年11月の第6回党大会で中央委員、1950年1月の第18回拡大中央委員会総会で書記局員[10]、農民部長[3]。同年6月6日GHQにより日共中央委員24人全員の公職追放令が出され[11]、地下潜行。同年7月15日松本を含む9中央委員に対し政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反で逮捕状が出され[12]、1953年5月に検挙されたが[13]、翌年東京地裁で無罪、1956年東京高裁で免訴となった[3]。1954年4月から1955年3月まで党臨時中央指導部員[14][15]。長谷川浩や保坂浩明らとともに伊藤律系と見られ、1955年7月の六全協では中央の人事から外された[16]。1956年選挙・自治体部長[8]。1958年7月の第7回党大会で市民部長。1961年7月の第8回党大会で中央委員、市民部長。1973年市民・中小企業部長[5]。1977年10月の第14回党大会で中央委員会顧問。1998年7月19日、急性肺炎のため埼玉県三郷市の病院で死去、94歳[8]。
スパイ疑惑[編集]
松本三益(真栄田三益)が宮城与徳の諜報活動を当局に密告しゾルゲ事件の端緒を作ったのではないかという疑惑が存在する。安田徳太郎は牧瀬菊枝編『久津見房子の暦――明治社会主義からゾルゲ事件へ』(思想の科学社、1975年)に掲載された聞き書きで、高倉テルの話として松本が宮城を当局に密告したことなどを明らかにした。これに対し松本は1975年5月に守屋典郎を弁護人として名誉毀損の裁判を起こしたが、裁判が始まる前に訴訟を取り下げ、守屋が「『聞き書き』と戦前史の真実――安田徳太郎氏のあやまりを正す!」(『文化評論』1976年6月号)を発表し安田に反論した[17]。尾崎秀樹によると、松本に対する疑惑は戦後早くから囁かれてきたものの見過ごされてきた(尾崎『越境者たち――ゾルゲ事件の人びと』文芸春秋、1977年)。尾崎自身もこれを追究することはなく[17]、尾崎が唱えた「伊藤律ゾルゲ事件端緒説」が定説化した。『偽りの烙印――伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、1993年)で「伊藤律ゾルゲ事件端緒説」を覆した渡部富哉は、石堂清倫からの委託で松本の疑惑を追究した結果、松本は当局のスパイだったと断定している[1]。
関連文献[編集]
- 広西元信「松本三益は公安当局のスパイか?」『日本週報』第250号、1953年6月
- 安田徳太郎『思い出す人々』青土社、1976年
- 小林杜人著、遊上孝一編『「転向期」のひとびと――治安維持法下の活動家群像』新時代社、1987年
- 渡部富哉「伊藤律スパイ<定説>の崩壊」、三著出版記念講演会実行委員会編『野坂参三と伊藤律――粛清と冤罪の構図』社会運動資料センター、1994年
- 古賀牧人編著『「ゾルゲ・尾崎」事典――反戦反ファシズムの国際スパイ事件』アピアランス工房、2003年
- 佐藤正『日本共産主義運動の歴史的教訓としての野坂参三と宮本顕治――真実は隠しとおせない(上)』新生出版、発売:ディーディーエヌ、2004年
- 渡部富哉「安田徳太郎と松本三益の名誉毀損裁判をめぐって『聞き書き』と『戦前史の真実』を検証する」、『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』No.43、No.44、2015年
- 渡部富哉『解明されたゾルゲ事件の端緒――日本共産党元顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追って』社会運動資料センター、2018年
- 山野晴雄 (2020年1月20日). “ゾルゲ事件とタカクラ・テル(PDF)”. タカクラ・テルとその時代. 2020年7月24日確認。
著書[編集]
- 『沖縄県人住所案内』 真栄田三益編、関西沖縄人会、1928年1月
- 『昭電大疑獄と日本の危機』 農民の友社、1948年
- 『事前割當早わかり――食糧確保臨時措置法解説と運用』 道瀬幸雄、1948年11月
- 『祝う会を記念して――松本三益生年85歳を祝う会記録』 編、松本三益、1988年3月(パンフレットバインダー)
- 『写真でつづる松本三益のあゆみ――年譜・著書・論文目録、資料』 編、松本三益、1988年3月
- 『自叙』 自叙-松本三益刊行会、1994年3月
- 『松本三益団規令事件公判記録――米占領下、秘密警察とのたたかい』 編、あゆみ出版、1991年7月
脚注[編集]
- ↑ a b c 渡部富哉. “解明されたゾルゲ事件の端緒(PDF)”. ちきゅう座. 2020年2月19日確認。
- ↑ 日外アソシエーツ編『20世紀日本人名事典 そ-わ』日外アソシエーツ、2004年、2358頁
- ↑ a b c d e 三宅明正「松本三益」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、1510頁
- ↑ a b c d 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、523頁
- ↑ a b 三省堂編修所編『コンサイス日本人名事典<第4版>』三省堂、2001年、1243頁
- ↑ 仲村紗希「『大阪球陽新報』にみる「日本人」の指標 : 移民教育に関する言説研究に向けて」『移民研究』11号、2016年3月
- ↑ 横関至「「左派」農民運動指導者の戦中・戦後--旧全会派の場合」『大原社会問題研究所雑誌』632巻、2011年6月
- ↑ a b c 『しんぶん赤旗』1998年7月20日付
- ↑ 仲井間宗裕『沖縄と人物』沖縄と人物刊行会、1950年(琉文21より)
- ↑ 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、56頁、86頁
- ↑ 法政大学大原社研 反共宣伝の激化、全中央委員の公職追放〔日本労働年鑑 第24集 723〕
- ↑ 法政大学大原社研 九幹部の「地下潜行」、春日正一の逮捕〔日本労働年鑑 第24集 732〕
- ↑ 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』282頁
- ↑ 水島毅『人物戦後日本共産党史――闇のなかの人間模樣』全貌社、1968年、227頁
- ↑ 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』206頁
- ↑ 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』214頁
- ↑ a b 山野晴雄 (2020年7月24日). “ゾルゲ事件とタカクラ・テル(PDF)”. タカクラ・テルとその時代. 2020年2月19日確認。
参考文献[編集]
- 山崎一夫「松本三益」、現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』流動出版、1981年、265頁
- 「平和人物大事典」刊行会編著『平和人物大事典』日本図書センター、2006年、518頁
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- 琉文21 » 1982年『青い海』新年号 109号 深沢恵子「松本つるーきびしい時代の息吹」