杉本文雄

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杉本 文雄(すぎもと ふみお、1905年1月20日[1] - ?)は、日本の社会運動家。元・日本共産党中央委員。戦前の別名は並木[2]

経歴[編集]

名古屋市生まれ。1927年早稲田大学政経学部卒業。在学中から学生運動に参加、1927年労働農民党本部書記。1928年日本共産党に入党[1]。1929年3月18日の東京地方オルガナイザー菊池克己の検挙が発端で検挙され、党中央直属オルガナイザーとして全国で活動していたため党中央にも波及した。3月28日に中央事務局長格の間庭末吉が検挙され、間庭のアジトから押収された党員名簿が4月の全国一斉検挙に繋がった(四・一六事件[3]。間庭とともにスパイの疑いを掛けられたが[2]、1931年病気のため仮出所・手術後、再び地下活動に入った。1933年全協東海地方協議会責任者として検挙、1941年出獄後に再検挙[1]、1943年出獄[2]

敗戦後日共に再入党、愛知県委員会、東海地方委員会を指導[1]。1950年6月の公職追放による主流派の地下潜行後、臨時中央指導部員に就任[4]。1951年9月3日に占領軍政策違反として他の臨時中央指導部員や国会議員ら17名と共に逮捕状が出され非公然活動に入り[5]、「三人体制」(志田重男椎野悦朗伊藤律)の下で紺野与次郎竹中恒三郎松本一三らと書記局的な役割を担った[6]。1955年7月の六全協後、中央編集委員、宣伝教育部長、東京都委員会副委員長、中央政策委員を歴任。1961年7月の第8回党大会から中央委員。1977年10月の第14回党大会で顧問[1]

2013年2月1日時点で故人[7]

著書[編集]

  • 『人民公社』 新日本出版社(双書世界と日本)、1959年5月

脚注[編集]

  1. a b c d e 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、310-311頁
  2. a b c 渡部富哉監修、伊藤律書簡集刊行委員会編『生還者の証言――伊藤律書簡集』五月書房、1999年、16-17頁
  3. 立花隆『日本共産党の研究(一)』講談社文庫、1983年、314頁
  4. 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、100頁
  5. 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』155-156頁
  6. 増山太助『戦後期 左翼人士群像』柘植書房新社、2000年、198頁
  7. 主張/「赤旗」85周年/創刊の決意を発展の力として しんぶん赤旗(2013年2月1日)