大武礼一郎
大武 礼一郎(おおたけ れいいちろう、本名:恵藤信行[1][2]、1924年4月15日~2019年3月31日[3] - )は、日本の政治活動家。日本共産党(行動派)名誉議長。大分県生まれ[3]。
経歴[編集]
日本共産党(行動派)によれば、1948年以降、日本共産党大分県委員会委員、九州地方委員会委員、中国地方委員会委員、関西地方委員会委員、中央委員会西日本局・宣伝教育部長を歴任[3]。日本共産党関西地方委員会幹部であった1955年に六全協で指導部から排除され、1958年の党第7回大会で宮本路線と決別。1960年5月12日に「プロレタリア革命派」を組織[4]。1961年末、根拠地を築くため工場に入る。労働運動に取り組みつつ根拠地の設営にあたり、1966年末には完成させた。1980年7月15日に日本共産党(行動派)再建大会が開催され、大武の呼びかけで日本共産党プロレタリア革命派、共産主義者同盟(国際主義派)、労働運動団体などの代表数十名が出席。大武の手になる『新・共産党宣言』が発表された[5]。
1969年に刊行された社会問題研究会編『全学連事典』によれば、日本共産党(解放戦線)から1966年に分裂した日本マルクス・レーニン主義運動の役員である[6]。
1985年に刊行された田代則春著『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』によれば、元日本共産党西大阪地区委員。1968年3月に日共を除名された。1980年7月に共産主義者同盟国際主義派と日本共産党(プロレタリア革命派)が合体して日本共産党(行動派)が結成された。大武はその議長であり、最高指導者である[1]。
日本人民戦線の機関紙『人民戦線の旗のもとに!』第466号(2018年6月25日)によれば、2018年5月、東京霊園(東京都八王子市)に建つ革命英雄記念碑で同志の入魂式が開かれ、大武が記念碑への納骨を行った。記事には行動派の中央委員から遺骨を手渡される大武の写真が掲載されている。
日本人民戦線の機関紙『人民戦線の旗のもとに!』第476号(2019年4月25日)によれば、2019年1月24日、「体力の限界」を理由に議長職を退任し、森久書記長に議長職を引き継いだ。退任後も名誉議長、最高顧問として行動派党の指導にあたるという。