松本一三
松本 一三(まつもと かずみ、1907年8月27日 - 1988年6月16日)は、日本の社会運動家。元・日本共産党中央委員。『改造』懸賞創作に当選した戯曲「天理教本部」は騎西一夫名義で同誌1931年5月号に掲載された[1]。
経歴[編集]
静岡県沼津市生まれ。1925年天理外国語学校(現・天理大学)露語科に入学。1927年沼津日日新聞社の編集長となり、木村毅や新居格を招いて思想講習会などを開催、1928年退社。復学後の1931年[2]、戯曲「天理教本部」が雑誌『改造』の懸賞創作で二等に入選したが[1]、マルクスを引用して天理教を批判したものだったため退学処分。日本プロレタリア作家同盟(ナップ)に加盟して作家を志す[3]。1932年長野県に高倉輝を訪ね、その紹介で全農長野県連合会上小地区常任書記、ナップ長野県オルグとして活動。同年末病気で沼津に帰り、1933年4月日本共産党に入党、共青・全協で活動。同年9月に検挙され[2]、懲役2年執行猶予5年[3]、1936年4月まで入獄[2]。1938年静岡人民戦線事件で再検挙され、懲役4年。1941年10月刑期満了となったが、太平洋戦争開始に伴う非常措置により東京予防拘禁所へ収容。この間、徳田球一が指導する獄内細胞に属して軍需作業反対闘争に参加し、政治犯を砲弾の薬莢磨きに動員する計画を中止させた[4]。
敗戦後の1945年10月に出獄、日共の再建に参加[2]。『アカハタ』再刊の責任者[5]、初代編集局長[3]。1946年2月の第5回党大会で統制委員[6]、中央委員候補、1947年12月の第6回党大会で中央委員に昇格し、東海地方委員会、四国地方委員会の議長を歴任。1950年6月6日のGHQの指令による日共中央委員24人全員の公職追放後、地下活動に入り、「三人体制」(志田重男、椎野悦朗、伊藤律)の下で紺野与次郎、竹中恒三郎、杉本文雄らと書記局的な役割を担った[3]。1955年7月の六全協で中央委員に再選され、中央委員会事務室長、財政部長を歴任[2]。1957年8月の13中総で書記局員[7]。1958年7月の第7回党大会で降格[4]、都内の地区委員長を経て、中央党学校、党史資料室に勤務[2][注釈 1]。1976年退職[2][注釈 2]。
著書[編集]
- 『すずろなる――松本一三獄中詩集』 松本一三獄中詩集『すずろなる』刊行委員会編、光陽出版社、1989年6月
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ a b 『改造』懸賞創作当選作・佳作一覧1-10回 文学賞の世界
- ↑ a b c d e f g 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、522-523頁
- ↑ a b c d 増山太助『戦後期 左翼人士群像』柘植書房新社、2000年、197-198頁
- ↑ a b 渡部富哉監修、伊藤律書簡集刊行委員会編『生還者の証言――伊藤律書簡集』五月書房、1999年、144-145頁
- ↑ 豊多摩(中野)刑務所を社会運動史的に記録する会編『獄中の昭和史――豊多摩刑務所』青木書店、1986年
- ↑ 五十嵐仁『「戦後革新勢力」の源流――占領前期政治・社会運動史論1945‐1948』大月書店、2007年
- ↑ 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、251頁
- ↑ 宮崎勝治「松本一三」、『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、1508頁
参考文献[編集]
- 山崎一夫「松本一三」、現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』流動出版、1981年、265頁
- 「平和人物大事典」刊行会編著『平和人物大事典』日本図書センター、2006年、518頁
- デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- 20世紀日本人名事典の解説
関連文献[編集]
- 岩崎光好『東静無産運動史』東静無産運動史刊行会、1974年
- 芹沢光治良『死の扉の前で』新潮社、1978年