戸川達安
戸川 達安(とがわ みちやす、永禄10年(1567年) - 寛永4年12月25日(1628年1月31日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。備前の戦国大名・宇喜多氏の家臣。備中庭瀬藩初代藩主。名は逵安とも書かれる。
生涯[編集]
父は宇喜多氏の家臣・戸川秀安。母は石川晴清の娘。幼名は助七郎。正室は長船貞親の娘。継室は岡元忠の娘。子は8男5女(平助(長男)、娘(日置左門室)、娘(堀直景正室のち岡家重室)、娘(戸川又左衛門室)、娘(花房幸次正室)、正安(次男)、令安(三男)、安尤(四男)、安利(五男)、安吉(八男)、達躬(九男)、娘(村上三正室))。官位は従五位下、肥前守。
宇喜多氏の筆頭家老である戸川秀安の長男で、最初は宇喜多直家に仕えて常山城主に任命される。達安は体格に恵まれ、腕力は強く武芸に優れたという。天正7年(1579年)に毛利輝元の叔父・小早川隆景が辛川に侵攻してきた際には、それを防ぐために戦って武功を挙げた。直家の没後は秀家に従い、豊臣秀吉による朝鮮出兵が始まるとそれに参戦して武功を挙げた。また文禄元年(1592年)に岡利勝が死去したため、宇喜多家の仕置を担当する立場になるが、文禄3年(1594年)になると長船貞親が仕置担当となり罷免されている。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、その翌年に宇喜多騒動と称される御家騒動が勃発すると、達安は主君・秀家と対立して主家を立ち退くことになり、江戸の徳川家康に身柄を預けられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に属して軍功を立てたため、戦後に備中の都宇郡・賀陽郡において2万9200石を与えられて庭瀬藩主となった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても冬・夏の両陣共に参戦する。
その後は徳川秀忠、家光に仕え、晩年には藤堂高虎や加藤嘉明と共に家光の御夜話衆に加えられる。寛永4年(1627年)12月25日に死去。61歳没。跡を子の正安が継いだ。
法名は不変院覚如。墓所は東京都大田区池上の本門寺、のちに塔頭永寿院に改葬された。