仮名手本忠臣蔵

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仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演[1]。全十一段、二代目竹田出雲三好松洛並木千柳の合作。また、その派生作品。通称『忠臣蔵』。

概略[編集]

江戸時代、実際に起こった武家社会の事件を文芸や戯曲で取り上げることは禁じられていたので、元禄赤穂事件についても舞台を室町時代とし、大石内蔵助を大星由良助義金(おおぼしゆらのすけよしかね)というように人名を変え、時代も暦応元年(1338年)に設定されている[2]。 明治以降、登場人物の名を実名で上演することができるようになった。

物語[編集]

暦応元年(1338年)二月下旬、征夷大将軍の位についた足利尊氏の命により、弟直義が鎌倉鶴岡八幡宮に新田義貞の兜を奉納することとなった。塩冶判官(えんやはんがん)の妻・顔世御前(かおよごぜん)が兜鑑定の役を務める。 以前から彼女の美しさに目を付け、横恋慕していた足利家の執事・高師直(こうのもろのう)は、顔世を引き止めて言い寄る。その場に来合わせた桃井若狭之助(もものいわかさのすけ)が顔世を逃がす。 翌日、顔世御前から手渡された手紙には、横恋慕を拒絶する文章があった。師直は腹いせに、遅れて登城した夫の塩谷判官にその怒りをぶつけなじる。

激怒した塩冶は師直に斬りつけた。しかし控えていた桃井若狭之助の家臣・加古川本蔵に背後から抱き止められ、とどめをさせぬまま取り押さえられる。足利の館より下された裁きは、判官の切腹と領地の没収であった。

大星由良之助は塩冶浪人たちを率いて鎌倉の師直邸に討ち入る。浪士たちは炭を保管する小さな小屋に隠れていた師直を見つけ首を刎ねる。大星らは師直の首を槍の先にぶら下げ、塩冶家の菩提所である鎌倉の光明寺へと引き上げ、墓前に師直の首を供える。

(以下は『仮名手本忠臣蔵』では上演されることは殆どない。他の忠臣蔵もの文楽・歌舞伎のみ。但し、浮世絵や読本の挿絵などで「大星切腹」が描かれる場合はある)

足利幕府の沙汰により、大星らは切腹を申し渡される。彼らは辞世の句を詠み、全員が切腹した。

脚色[編集]

歌舞伎人形浄瑠璃、テレビドラマの場合は忠臣蔵(ちゅうしんぐら)と呼ぶが、史実にない設定や独自の解釈がされる場合がある[3]。その他、講談、浪曲では義士伝(ぎしでん)と呼ばれる[4]

一例として

  • 吉良上野介は勅使饗応役 (ご馳走役)の浅野内匠頭に長年不満を抱いていた。内匠頭からの贈り物にも不満があり、賄賂の要求もしている。さらに「鮒侍」と侮る様子もある。
  • 内蔵助は大高源吾が切り出した茶会情報を基に、討ち入り日を決めた[5]
  • 炭焼き小屋に隠れていた上野介は兵に見つかり、討ち入られた。

実際の歴史[編集]

なお、史実で髙師直を討ったのは塩冶家の浪人ではなく、上杉能憲及びその家臣(浪人でなく家人)で、師直に殺された養父・上杉重能の仇討ちである。

近年[編集]

演劇面[編集]

1945年GHQが忠臣蔵を含む仇取りの演劇を演る事を禁止した。1952年、事実上の日本独立により解禁されている。

関連作品[編集]

  • 忠臣蔵偏癡気論(式亭三馬
    • 塩冶・大星父子ら一人ずつ、名指しで批判の筆誅を加えた挿絵入り読本。
    • 式亭三馬自身が、逆恨みで自邸を集団襲撃されており、義士は大嫌いであった。

脚注[編集]

出典
  1. 『近世邦楽年表 義太夫節之部』(六合館、1927年)106頁[1]など。
  2. 「日本の古典50冊」(35 仮名手本忠臣蔵)199頁(三笠書房)など
  3. 松島栄一『忠臣蔵―その成立と展開』岩波新書、1964年
  4. 吉沢英明編『講談作品辞典』(昭和堂、2008年)
  5. 中央義士会は「大高が山田宗徧から情報を得たという話は信憑性が低い」としている(赤穂義士会『忠臣蔵四十七義士全名鑑 子孫が綴る、赤穂義士「正史」銘々伝』)

関連項目[編集]