岡本良勝

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岡本 良勝(おかもと よしかつ、天文12年(1543年) - 慶長5年9月16日1600年10月22日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名通称は平吉郎、太郎右衛門尉。受領名は下野守。重政(しげまさ)や宗憲(むねのり)ともされるが、「良勝」が正しいとされる。

略歴[編集]

岡本氏は尾張国熱田宮の神官の家柄で、良勝は岡本下野守の子とされる。『勢州軍記』においては織田信長の3男・織田信孝の母方の叔父に当たるとされている。信孝の生母である坂氏は、永禄元年(1558年)に岡本の宿所において信孝を出産しており、その縁により信孝が永禄11年(1568年)2月に伊勢北部の神戸氏養子になった際に、信長から信孝の補佐として付けられたという。

天正10年(1582年)時点では信孝の取次衆を務めるほど重用されていた。しかしこの年に本能寺の変で信長が死去。その後継者をめぐって柴田勝家羽柴秀吉清須会議を経て対立すると、良勝は信孝から離反して秀吉に味方した。そして信孝が自害すると、そのまま秀吉の家臣となって九州征伐小田原の役朝鮮出兵などに参加している。朝鮮出兵では渡海して晋州城攻めに参加している。文禄3年(1594年)、秀吉の命令で伏見城普請に参加。この時点で伊勢亀山城主として2万2000石を食んでいたが、さらに伊勢国鈴鹿郡において1万5230石の加増を受けている。慶長3年(1598年)の秀吉の死の際には、形見として刀を受け取っている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては西軍に属した。しかし9月15日の本戦で西軍は大敗。その翌日、自らの城を山岡景友に差し出して降参するも、徳川家康は許さずそのまま自害を命じた。享年58。