小松姫

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小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日1620年3月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性上田藩および松代藩の初代藩主・真田信之(信幸)の正室。別名はおいね於子美(おねみ)、すみとも言われる。

生涯[編集]

父は徳川家康に仕えて徳川四天王のひとりとして武功を欲しいままにした本多忠勝で長女。兄弟姉妹にもり姫奥平家昌室)、本多忠政本多忠朝らがいる。

忠勝の主君・家康と北信の戦国大名真田昌幸は天正10年(1582年)6月の本能寺の変織田信長が横死したことで発生した天正壬午の乱で紆余曲折を経て敵対しており、信長没後に天下人となった豊臣秀吉の仲介を受けて家康と昌幸は和睦し、昌幸は家康の与力大名となったが、その際に関係を深めるために家康が自分の養女にして忠勝の長女である小松姫を昌幸の嫡男・信幸に嫁がせようとした。しかし昌幸は「陪臣の娘を嫡男の嫁にできるか」と最初は拒否していたとされ、秀吉の仲介でようやく信幸との結婚がまとまったという。なお、信幸はこれが初婚ではなく、既に昌幸の兄・信綱の娘を正室に迎えており、小松姫を迎えるにあたってこの信綱の娘は側室に降格し、小松姫が正室に迎えられている。両者の結婚は天正14年(1586年)に行なわれている。

信幸との夫婦仲は良好で、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、真田信政真田信重の2男2女に恵まれている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の会津征伐に従軍する信幸に対し、小松姫は「親子兄弟といえどもご油断なく」と説いて、夫を励ましたという。そして家康が畿内を留守にしている間に石田三成大谷吉継らと結託して西で挙兵したため、天下は大乱となった。この際、小山評定が開かれるが、真田親子は下野国犬伏において東軍(家康方)、西軍(三成方)のどちらに味方するか去就を話し合い、昌幸と次男の信繁(幸村)が西軍に、信幸が東軍に味方することになり、信幸は父、弟と敵対することになった。そして昌幸は自身の居城である信濃上田城に帰還する途上にある信幸の居城である上野沼田城に立ち寄る。この際、沼田城の留守を預かっていたのが小松姫であり、昌幸は小松姫に対し「所用があって上方に行くゆえ、しばらく休憩したい。孫の顔も見たいので入城させて欲しい」と求めた。これに対して小松姫は夫がいなければ入城はできませんと謝絶し、城内にいた女も武装させて守備につかせたので、さすがの昌幸も諦めて「さすがは本多忠勝の娘よのう」と述べて立ち去ったという。

関ヶ原の終了後、昌幸と信繁には家康から最初は死罪を命じられていたが、信幸とその舅の忠勝、並びに小松姫の助命嘆願などがあって家康は死罪を取り消し、紀伊九度山への流罪に変更した。その後も家康や秀忠から睨まれて苦しい立場にあった真田氏の存続に尽力し、付け届けをするなど影で大いに貢献していたという。

元和6年(1620年)に小松姫は病に倒れる。療養するため、草津温泉に湯治に出かけるが、その途上で病気が悪化して急死した。48歳没。

信之(関ヶ原後に昌幸らと訣別するため改名)は小松の死去を知り、「我が家の灯火が消えたり」と述べて大いに悲嘆したといわれる。

小松姫が登場する作品[編集]

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