小幡虎盛
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小幡 虎盛(おばた とらもり、? - 永禄4年6月2日(1561年7月14日))は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。父は小幡盛次。子に昌盛。武田二十四将の一人に数えられる。その武勇から「甲斐の鬼虎」と称された。
生涯[編集]
仮名は孫十郎[1]。官途は織部[1]。受領名は山城守[1]。出家後の法号は日意を称した[1]。生年は文明13年(1491年)か永正2年(1505年)とされる[1]。本項でははっきりしないので生年不明とした。
永正15年(1518年)に父が死去したため、家督を継承した[1]。武田信虎の下で足軽大将衆となり、同心15騎、足軽75人持となる[1]。武田信玄の時代には高坂昌信の相備衆として信濃海津城二の曲輪の守将を務めた[1]。永禄4年(1561年)6月、第4回川中島の戦いの3か月前に病死した[1]。享年は71か57[1]。
『甲陽軍鑑』によると、生涯で36回にわたる合戦に参加し、身体に41か所の傷を受けるも活躍した勇将とされている。また、死去する際の遺言として「よく身の程を知れ」と遺した逸話でも知られている。信玄が出家した際に、虎盛も剃髪して日意と号している。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6