富山県の被差別部落
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富山県の被差別部落 (とやまけんのひさべつぶらく)とは、富山県の被差別部落の特徴や被差別部落に関する事例、部落解放運動、同和教育について説明する。
概要[編集]
富山県には被差別部落はないことになっているが、それは1969年に成立した同和対策事業特別措置法に該当する地域が存在しないという行政上のことであって、部落解放同盟の支部が存在しており、被差別部落も存在している。過去には事件が発生し、富山地方裁判所で民事、刑事事件が発生したこともあった。
歴史[編集]
この節に加害者や被害者などの実名を記載しないでください。
明治時代以前[編集]
戦国時代、越中国に逃げ込んだ侍の中に薬草の知識に詳しい者がおり、これが富山県の賤民階級の特徴である。前田家の領内では寺院の清掃や火葬を行う賤民階級を「藤内」と呼称された。藤内はこの他に斃死した牛馬の死骸の処理、皮革産業への従事、処刑地の警備と死体の後始末、さらには村の外縁部での警察業務を行った。
明治時代[編集]
1910年4月17日に富山県の被差別部落の男性が漁民3名に対する傷害罪で逮捕された。鱒2尾を売ってくれなかったという小さな事件であるが、富山地方裁判所が被告側の申し立てた9名の証人を却下したために、男性側の弁護士が裁判官を忌避したために新聞の注目を集めることになり、5月21日に富山日報に掲載された。日頃から男性の態度に村内では腹を立てている者がおり、「こん畜生とうない奴」と言われ、袋だたきにされたということである。男性は加害者ではなく被害者であったということである。また、石川県の産婆養成学校の試験に合格した女性に対して、父親が「あんな穢れた職に就くとは何事か、あれはそういった人たちがやるものだ」と女性に暴行を加えるなど、産婆が被差別部落の職業であることが覗える。石川県で実習を行ったみいはこの地に「オンボウマチ」という産婆の被差別部落があることを知る。
大正時代[編集]
1920年8月25日の富山日報は「特殊部落民の向上を希望す」という論説で「日本国民は講和会議において人種の差別的撤廃を要求したにもかかわらず内地においては新平民に差別的に待遇していれば彼の提案は没却されて終ふものである」と、国際社会で差別的撤廃を叫びながら、国内では差別を行うという矛盾を指摘している。
詳細は「人種差別」を参照
全国水平社が設立した後、北陸地方では福井県には支部が設立されたが、石川県、富山県には設立されなかった。医師、産婆、農業といった尊敬される職業に就き、差別されても泣き寝入りする土壌があったからである。1926年4月10日富山県融和会が発足する。1940年4月24日に富山県大和会に改組した。
昭和時代以降[編集]
1975年、富山地方裁判所で富山県内の女性に対して県外の男性とその母親にそれぞれ500万円を支払うよう命ずる判決が出された。男性と女性は1972年に婚約したが、女性が被差別部落出身と知ると妊娠している女性に中絶を強要し、それと並行して別の女性と交際し始めたにも関わらず関係を続けて妊娠させ、一方的に婚約破棄して別の女性と結婚した。妊娠していた女性は翌年に男児を出産した。
- 1871年に公布され、1872年に施行された戸籍法に基づいて作成された壬申戸籍は一部には差別的呼称が存在したため、1867年に法務省は全面的に閲覧禁止としその後、部落解放同盟の抗議を受けてすべての壬申戸籍を法務局に回収して厳重に保管することになった。しかし、1980年代前半に富山県内各市町村から壬申戸籍は発見され、それについて法務局への報告が遅れ、批判を受けた。
同和教育[編集]
富山県では行っていない。太平洋戦争後の富山県に被差別部落は行政上存在しないことになっており、過去にあっても解消してしまい、被差別部落の問題は富山県には関係のない歴史上の事実に過ぎないと思っている人が多い。
被差別部落の一覧[編集]
かつては書籍に被差別部落の存在する地方自治体の地区まで紹介していたものもあったが、人権侵害の可能性が指摘されているため[1][2][3]、記載しないでください。
富山県の被差別部落出身の著名人[編集]
被差別部落出身者であることを公表している人物のみ記載可能。
文化[編集]
参考文献[編集]
- 藤野豊『被差別部落ゼロ?ー近代富山の部落問題』桂書房2001年6月15日初版発行。
- 森達也『放送禁止歌』光文社2003年6月25日初版第二刷発行。
- 角岡伸彦『はじめての部落問題』文春新書2006年4月25日第6刷発行。