部落解放運動

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部落解放運動 (ぶらくかいほううんどう)とは、被差別部落に対する偏見差別をなくすための社会活動である。

概要[編集]

被差別部落に対する偏見差別は、人種宗教とは関わらない日本特有の社会問題である。行政や被差別部落の関連団体も解消に努めているが、自分よりも立場の弱い人間を攻撃する心の狭い人間の弱さからか、解消できるにはほど遠い。

歴史[編集]

前史[編集]

1871年8月28日に、平安時代から長らく賤民階級とされていた人々が平民となったが、新平民と言われ、解放令反対一揆が起きて岡山県では被差別部落が襲われて死者が出るなど、差別は終わらなかった。さらに皮革産業の独占が崩れるなど経済的困窮によって劣悪な生活環境に陥った。

黎明期[編集]

中江兆民はこの状況を憂い、岡山県で生活環境の改善のための運動を行った。この流れは大日本同胞融和会の結成に繋がり、帝国公道会も組織された。しかし、これらの組織は経済的に恵まれた部落民が対象であった。このために多くの被差別部落出身者は放置され、これが米騒動に多くの部落民が参加する結果になった。この流れでさらに1922年3月3日京都市で西日本を中心に3000人が参加して全国水平社が結成された。糾弾活動によって差別を解消する決議を行い、社会主義思想とも結びつき、天皇制華族制度、軍隊内部の差別に対して徹底的に批判を行い、弾圧された。1942年太平洋戦争の激化によって解散した。

発展期[編集]

太平洋戦争後に全国水平社の後身である部落解放同盟が結成された。同和教育も始まったが、却って差別を助長する可能性が指摘された。また、日本共産党が「糾弾は暴力」という立場をとったために決別、以降、部落解放同盟と日本共産党とは対立関係にある。1969年に公布された同和対策事業特別措置法によって被差別部落の環境改善が始まった。1970年代から1980年代にかけては部落解放同盟のマスメディアに対する差別表現糾弾闘争の全盛期だった。1981年12月10日朝日放送で放送された報道特別番組「そして明日は」では「赤い鳥」解散後再結成した「紙ふうせん」によって「竹田の子守唄」が歌われた後、結婚差別で自殺した被差別部落出身の女性が紹介された。次に企業の依頼に応じて新入社員の身元調査を続けていた帝国データバンクへ部落解放同盟のメンバーが乗り込んで激しく糾弾する様子が収められていた。

現状[編集]

被差別部落に対する蔑視はかなり薄らいだ。ただ、過疎地域の被差別部落が人口減少で消滅寸前である一方、都市部での被差別部落からは進学、就職、結婚で出ていく人がいるのと同時に地価の安さから経済的に苦しい層が流入し、貧困層

関連項目[編集]

参考文献[編集]