鄭玄
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鄭 玄(てい げん、127年 - 200年)は、中国の後漢末期の儒学者。字は康成(こうせい)[1]。父は鄭數。子は鄭益。孫は鄭小同。名は「じょうげん」とも読まれる。
生涯[編集]
青州北海郡高密県(現在の山東省高密市)の出身[1]。若い時に村の下級役人になるが、やがて都に出て太学で経書を学んだ。馬融や盧植らに師事し、10数年後に故郷に戻り[1]、生徒を集めて経学を教授した。しかし党錮の禁が起きると連座し、隠棲して著述に専念した。
霊帝時代の末年、党錮の禁は解かれて再度朝廷から召し出しを受けたが応じなかった。
北海の相・孔融に深く尊敬され、高密県の一部を独立させてここを「鄭公郷」と呼んだ[1]。184年に黄巾の乱が起こるが、黄巾軍は敢えてこの郷のみには侵入しなかったという[1]。
当時は今文学と古文学が対立し論争していたが、鄭玄は今文学の説を採りながら古文学を確立し、漢代の経学を集大成して「鄭学」と称された[1]。200年に74歳で死去。
姜維伝にも鄭玄の名が登場し、姜維が鄭玄の学を好んだとあるため[1]、没後もその学問が大きく影響していたことを示している。
小説『三国志演義』にも登場。袁紹から「様」と敬称されるほど畏敬されており、袁術を討った劉備を取り成す際に書状を書く人物として登場する。