杜預
杜 預(と よ、222年-284年)は、中国の三国時代の魏から西晋にかけての政治家・武将・学者。字は元凱(げんがい)[1]。「どよ」とも読まれる[1]。祖父は杜畿。父は杜恕。子は杜耽・杜錫・杜尹など。妻は司馬懿の娘。遠祖は史記で“酷吏”と評された前漢の御史大夫の杜周。その子で父と同じ御史大夫を務めた杜延年は父や弟と共に南陽郡の杜衍県(河南省南陽市)から茂陵(陝西省興平市)に移住した。後に杜延年が更に杜陵(陝西省西安市)に移住したため、子孫は代々ここに居住することとなった。唐代の詩聖・杜甫は杜預の子孫に当たる。
生涯[編集]
京兆郡杜陵県(現在の陝西省西安市)の出身[1]。父親が司馬懿と不仲で対立していため、司馬一族が権力を握った朝廷で杜預が重く用いられることはなく、そのために表舞台への登場は大幅に遅れることになった。しかし、司馬昭の妹を妻に迎えたことを転機に、尚書郎に任命、また楽詳の取りなしもあって[2]祖父・杜畿の侯位であった豊楽亭侯の継承を許されるなど、一気に重用されてゆく[1]。263年の蜀征伐では鍾会の副官として従い、この際に司馬昭への反乱を計画した鍾会に協力したとして同僚の多くが処罰されることになったが、杜預は難を逃れて無罪とされている[1]。
278年、呉征伐を武帝に上奏していた羊祜が死去し、その後任に羊祜の推挙を受けた杜預が就任する。279年から征南大将軍として呉征伐を開始し、呉の江陵を攻略したが、この際に杜預の首に瘤があったことから瘤のある樹木に「杜預の首」と書かれていたことに怒って住民を全員処刑したという[1]。西晋軍が呉の首都・建業に迫った際、「気候が温暖になって長雨が降り、疫病が流行る時季だから冬まで待ったほうがよい」という意見が出る中で、杜預は「今、軍の威勢は大いに振るい、喩えるならば竹を割くようなもの」と答えた[1]。つまり竹は最初の節が割れるとあとは簡単に割れてしまうので、これが『破竹の勢い』の故事になったという[1]。そして杜預は進軍を続け、遂に呉を降伏させて天下統一を成し遂げたという[1]。
この功績により、凱旋後に武帝から当陽県侯に封じられ、9600戸の領邑を与えられた[1]。その後、司隷校尉に任命される[1]。284年に西晋の首都・洛陽に上京する途上で病死した[1]。享年63。
学者でもあり、『左伝』に没頭して自ら『左伝癖』と自称するほどだったとされ、『春秋左氏経伝集解』を著した[1]。また、司令官として軍を指揮することには長けていたが、馬には乗れず、弓矢も不得手で個人的な武勇は全く振るわなかったと伝わる[1]。
『三国志演義』では瘤による住民虐殺以外はほぼ史実通りに描かれている[1]。