久武親直

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久武 親直(ひさたけ ちかなお、生没年不詳)は、安土桃山時代武将長宗我部氏の家臣。通称は彦七内蔵助[1]。長宗我部家を滅ぼす原因を作り出した奸臣と評される。

概要[編集]

父は久武昌源。兄に久武親信がいる[1]

天正7年(1579年)、兄の親信が南予平定中に土居清良の反撃を受けて射殺されたため、家督を相続して長宗我部元親に仕えた[1]。ただし、兄の親信は親直のことを快く思っておらず、生前に元親に対して「弟の親直は腹黒い男なので、お取立てなさらないように」と言い残していたという。

親直は武勇に優れた親信と違い、才能や策謀に優れた謀略家で、そのため元親から信任された。天正12年(1584年)には伊予国軍代に任命され、宇和郡三間の攻撃を行う。阿波国平定戦にも参加し、牟岐城主の新開道善丈六寺において謀殺した。さらに中富川の戦いで元親に対して渡河する時刻を進言し、一軍を任されて自ら指揮をとったり、豊臣秀吉による四国征伐においては伊予国の高尾城金子城を支配する金子元宅と結託して抵抗するなど、謀略家だけでなく、武略にも長けていたことを伺わせる事績が多い[1][2]

天正14年(1586年)、秀吉に服属していた元親は、秀吉の大仏殿建立に際して用材を送るが、この際に親直は元親より材木搬出の責任者に任命され、この際に元親の甥である吉良親実と対立し、不和となった。さらに同年、長宗我部家を継承する予定の長宗我部信親戸次川の戦い戦死し、後継者問題が勃発する。この際、親直は元親が偏愛する4男・長宗我部盛親を支持して元親の意を汲み、盛親より年長の香川親和津野親忠らを推す吉良親実、比江山親興らと対立し、彼らを巧みに讒言して誅殺に追い込んだという[2]

慶長4年(1599年)、元親が死去すると跡を継いだ盛親に仕える。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親が西軍に属して敗戦した後、元親が死去する直前に幽閉されていた津野親忠の誅殺を盛親に勧めて実行させ、これが「兄殺し」として徳川家康に長宗我部家改易の格好の口実を与えてしまった。そして、家康により土佐国没収の沙汰が下り、それに反発する多くの長宗我部家家臣団の浦戸城籠城の要求を排して降伏の意見を述べ、開城することを主導した。その後、親直は肥後国に赴いて加藤清正に仕え、1000石を与えられたというが、その変節を周囲から大いに非難されたという[2]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 山本大「長宗我部元親のすべて」P205
  2. a b c 山本大「長宗我部元親のすべて」P206

参考文献[編集]