桑名吉成
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桑名 吉成(くわな よしなり、? ‐ 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。後に藤堂氏の家臣。長宗我部家臣時代は土佐国中村城代を務めた。通称は弥次兵衛(やじべえ)。別の諱に一孝[1]。
生涯[編集]
父は桑名丹後守の弟の桑名藤蔵人。従兄弟に桑名太郎左衛門、桑名親勝、桑名平右衛門らがいる[1]。
長宗我部元親に仕え、元親の四国制圧戦争に参加して多くの功績を立てたことにより、土佐中村城代に任命される[1]。天正14年(1586年)12月の戸次川の戦いに参加し、島津家久に敗れて敗走する元親に付き従い、その途上である豊後国臼杵で土豪の妨害を受けた際に元親を守り抜いて土佐への撤退を果たした。この戸次川の戦いで長宗我部信親が戦死して後継者問題が起こり、天正16年(1588年)に元親と対立した吉良親実に対して元親の命令により賜死の命令を伝える検使の役目を務めあげた[2]。
慶長4年(1599年)に元親が死去する際、病床において後継者である盛親に吉成を長宗我部軍の先手として重用するように遺命したとされ、元親の信任の厚さを物語る逸話の一つとなっている。元親没後は盛親に仕え、関ヶ原の戦いで長宗我部家が改易となり、山内一豊が新しい土佐国主として入国した際に浦戸一揆が起きると、吉成はこれを策略をもって懐柔した上で浦戸城の明け渡しを行なう。そして、伊勢国津藩主の藤堂高虎に2000石で召し抱えられた[2]。
慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣において旧主の盛親と刃を交わし、その陣前において半ば自殺するかのように戦死を遂げたという[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]