如渕
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如渕(じょえん、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧。長宗我部氏の家臣。正式な名は真西堂 如渕(しんせいどう じょえん)[1]。
経歴[編集]
土佐吾川郡弘岡で生まれる。血縁に関しては土佐吉良氏の一族で吉良宣義の甥とする説と、長宗我部元親の弟である吉良親貞の妾腹の子とする説があり、この説が正しいなら元親の甥にあたることになる[1]。
永禄年間初期に出家して土佐郡宗安寺の僧侶となる。その後、上京して東福寺、妙心寺で修業を重ね、土佐に帰国後に元親に招聘されて岡豊城で忍性と共に儒学を講じる役目を担った。その思想は土佐に大きな影響を与え、土佐の武士の精神形成に大きな影響を与えた[1]。
ところが天正14年(1586年)12月に元親の長男で継嗣だった信親が戸次川の戦いで戦死し、これにより長宗我部家中で後継者問題が発生する。この際、異母兄と見られる吉良親実は香川親和や津野親忠らを支持して元親や久武親直が推す長宗我部盛親の擁立に反対したため、元親の怒りを買って天正16年(1588年)に誅殺された。如渕も縁者に当たることから、僧侶であるにも関わらず連座が適用されて、元親により殺害されたという[1]。
ただ、別の説として元親の追求から逃げ延びて土佐中村の大平寺に逃げ込み、そこから上京して弟子の雲居と共に東福寺や大徳寺で暮らしたとする説も存在する。また、『吉良物語』の著者は如渕であると伝えられている[1]。