吉田東洋
吉田 東洋(よしだ とうよう、文化13年(1816年) - 文久2年4月8日(1862年5月6日))は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。後藤象二郎は義理の甥にあたる。藩主・山内容堂の片腕として藩政改革に着手したが、そのやり方から尊王攘夷派に恨まれて暗殺された。
生涯[編集]
通称は元吉という。吉田家の先祖は安土桃山時代に土佐を支配していた長宗我部氏に仕えていたが、長宗我部氏が関ヶ原の戦いで改易された後も他の旧臣のように山内氏に対して反乱に関与しなかったため、逆に信任されて山内氏の馬廻を務めていた。
東洋は若くして家督を相続して第13代藩主・山内豊熈に仕えて実力を認められ、豊熈に対して人事・海防についてまとめた意見書である『時事五箇条』を提出した。しかし嘉永元年7月10日(1848年8月8日)に豊熈が死去すると東洋も失脚し、国学者の鹿持雅澄や漢学者の斎藤拙堂らに師事し、さらに江戸に出て藤田東湖、塩谷莟陰、安井息軒らと親交を深めた。
土佐藩で第15代藩主に山内容堂が就任すると、東洋は藩政の中枢に呼び戻されて厚い信任を受け、藩政改革を行なうように命令される。土佐藩は保守派の勢力が非常に強かったが、東洋は容堂の信任を受けて民兵制度の導入、甥の後藤象二郎をはじめ、福岡孝悌、岩崎弥太郎、板垣退助らを身分に関係なく登用していった。しかしこれらの政策は保守派からの反発を受け、江戸参勤で容堂と共に江戸に登った際に、容堂との酒宴の席で東洋を侮辱した山内氏の親戚を殴るという事件を起こしたのを理由にされて一時的に失脚を余儀なくされる。だが、この禁足中にも私塾・少林塾を開熟して多くの優秀な人材を育て上げた。
安政4年(1857年)12月、容堂の命令で藩政に復帰する。安政5年(1858年)、安政の大獄により容堂は伊井直弼によって隠居謹慎を命じられ、第16代藩主に山内豊範が就任すると、東洋はこの若き藩主の下で完全に実権を掌握し、後藤など多くの人材と共に開明的な革新派とされる新おこぜ組を興した。東洋は閥族打破、開国貿易、公武合体など様々な藩政改革に着手するが、これは武市半平太が結成した土佐勤王党が目指す尊王攘夷、並びに旧閥族である保守派などから大いに恨まれて反発を受けた。
そして文久2年(1862年)4月8日、藩主の豊範に織田信長の本能寺の変について講義をして終了して自邸に帰る夜、自邸の近くで待ち伏せていた土佐勤王党の志士である那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助らの襲撃を受ける。東洋は剣の使い手で激しく抵抗したが、酒を飲んでいたことや50に近い年齢だった上に3人がかりだったため、遂に斬殺されたという。47歳没。この暗殺に関しては事件直前に坂本竜馬が脱藩していたため、坂本が暗殺者ではないかと疑われたという。
子に吉田正春がいたが、まだ少年だったため、かつて東洋が養育した甥の後藤象二郎が恩返しの意味も込めて引き取って養育したという。
吉田東洋が登場する作品[編集]
- 映画
- 漫画
- 小説
- 『土佐の夜雨』(司馬遼太郎)
- TVドラマ